『ギラギラ』を自分勝手に解釈してみた

ひっっっっさしぶりの記事更新です!

なぜなら、どうにもこうにも私の琴線に触れる曲と出会ってしまったから...!

 

ということで、ここでは、Adoさんの歌う『ギラギラ』について考察・解釈していきます。

 

作品↓↓↓


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美しい作品です。

作詞作曲はてにをは氏。不思議でかっこいい世界観を生み出す天才。今作も独特でかつ美しく、歌詞は強い主張を感じさせる作りとなっています(Mix は Naoki Itai 氏)。

そして、その音楽を高い歌唱力と強い個性で彩るのは、「うっせえわ」で爆発的人気を博したAdo氏。本作は比較的落ち着いた曲調でありながらも、Ado氏の表現力により状況の不穏さや心情変化がうかがえ、本当に耳が離せません。

これらに加え、作品への強い没入感を生み出しているのが、繊細で美しい映像。沼田ゾンビ氏(Image Director は ORIHARA氏)により描かれた一人の少女の物語ですが、これがまた、美しくありながらもどこか醜悪さを感じさせる絶妙なバランスを保っています。

 

何が言いたいかというと、

 

まじで最高

 

 

美しくありながらも憂いを帯び、儚げでありながらも強烈で、思わず何度も聞いてしまう作品です。

そのため、ただただ聞いているだけでも心の何かが満たされる作品ではあるのですが、聴いているうちに少女の劣等感や世界への不満といった感情だけでなく、ある背景が隠されているのではないかと思うようになりました。

 

 

というわけで、ここでは私の考察・解釈を書き連ねています。

この考察では、まず最初に私の仮説を提案し(第1章)、その後、歌詞と映像に沿って曲を解釈(第2章~第4章)、最後に曲の主張についてまとめたいと思います(第5章)。

考察・解釈欲がギラギラと迸り、なが~い論文のような妄想となってしまったのですが、一つの解釈として楽しんでもらえると嬉しいです。

 

 

 

※以下、歌詞は「ギラギラ(Music & Lyrics:てにをは)」より引用しています。

 

【目次】

 

1. 背景考察:異教とキリスト教から

まず、結論から言うと、

 

この曲は、

多神教の信者が、一神教の信者に絆され(騙され)、改宗の手伝いをさせられる様子を描いている

という仮説が立てられる。

 

まず、この物語では、容姿に劣等感を持つ主人公の少女(以下、少女もしくは彼女)が、ヴェールを身にまとった人(以下、「その人」)と出会う様子を表している。

そしてこの曲は、「信仰」が関連していると予想され、いくつかの宗教を組み合わせてモデルにしている印象だ。

これらの候補となる宗教モデルを組み合わせて解釈していくと、上記のような仮説が立てられるわけなのだが、少し候補が多いのでひとつひとつ説明していきたい。

 

主人公のモデル) アテーナー(ギリシャ神話)、トール(北欧神話)

本作品の少女は、ギリシャ神話(ローマ神話)の女神アテーナーと、北欧神話のトール(とヘイムダルも少し)もまたモデルとしているのではないかと考えている。

 

アテーナー(ギリシャ神話)

ギリシャ神話を崇拝していた古代ギリシャでは、この曲の舞台のような神殿も多く存在した。ギリシャの有名なパルテノン神殿もまたその一つで、女神アテーナー(ローマ神話でいうミネルウァ)が祀られていたという。

このアテーナーは知恵や戦いの女神で、ギリシャ神話の主神であるゼウスから生まれた。ルーブル美術館の「サモトラケのニケ」で有名な有翼のニケ(ニーケー)はアテーナーの化身であるとも言われている。

本作では、中心となる場所の中央に女性の絵画があり、その絵画の女性はニーケーと同様、背中に翼が生えている。

※ニケのほかに、ギリシャ神話で翼をもって描かれることの多い女神には、恋多き曙の女神「エーオース」や義憤の女神「ネメシス」などがいる。これらの神々もまた、本作のキーワードとしてかかわっているのかもしれない。

 

また、アテーナーはゼウスのこどもではなく、「ゼウスから生まれたもの」である。この理由は、ゼウスが「第二子の息子によって王権を奪われる」という予言を恐れ、妊娠した妻を飲み込んだものの、その後頭痛を覚えて頭を割ってもらうとそこからアテーナーが出てきたというとんでもない話があるからである(※その後ゼウスはアテーナーを溺愛)。

本作では、そこまでとんでも話はないが、最終的に「その人」が頭を割られることになる。

これはもしかすると、ゼウスのような完璧な神として崇めていた「その人」を割ることで、少女は「アテーナー」のような女神になったことを示しているのかもしれない。

作品の少女は、「その人」と出会ってから以降、中心の絵画にかぶさるような位置で立っていることが多く、「その人」を割った後は、中心の絵画のほうへと向かって歩いていく。これは、少女が信仰対象であるアテーナーの立ち位置にいることを暗示しているのかもしれない。

  

 

トール(北欧神話)

トール(ソール、ソー)は雷の神であり、北欧神話最強の神である。アメリカンコミックス「マイティ・ソー」などで存在を知る人も多いだろう。北欧神話の主神であるオーディンと同格とされる。

そして、トールという神の特徴は、なんといっても槌。彼は、ミョルニル(粉砕するものという意味)と呼ばれる槌(トールハンマーとも呼ばれる)を手に戦うことが知られている。

本作の映像では、少女が槌がもって「その人」や「つぎはぎの女像(以下、女像①、曲解釈にて詳細を記載)」を壊している様子が描かれており、少女のモデルがトールである可能性を示している。

 

また、その可能性を支持する証拠が「体の大きさ」だ。

少女は他の人間よりも線の細い人間だ。一番の映像では他の人間と並んで学んでいる様子が描かれているが、少女は他の人間よりも背が小さく、骨格もほっそりとしていて、足など一回り以上小さい。

実は、トールは、神々の敵である巨人(ギリシャ神話でいうところのティーターン族)との対決で中心的な役割を持つ神だ。

本作の中盤までは、新しい神(その人)を信仰する彼女が、古い神々である巨人側をモデルとするような彼女よりも大きな人間と戦っていく様子が描かれていると仮定できる。

  

これらをもとに考えると、「1mgの花火」や「メラメラ火を噴いて」といった歌詞は、トールの雷や燃えるような外見ともかけているのかもしれない。

 

 

その人のモデル) 神(キリスト教)

「その人」のモデルとしてまず考えられるのは、ゼウス(ギリシャ神話)である。

理由は既に述べたように、女神アテーナーは全知全能であるゼウスを割ることで生まれたからだ。

次に、オーディン(北欧神話)も挙げられる。

曲の後半で判明するが、「その人」は左目部分を損傷している(割れている)。実は、北欧神話の最高神でありトールの父であるオーディンも、左目を失った姿で描かれることが多く、「その人」のモデルとなっている可能性があるわけだ。

 

これらは、おそらくモデルとして組み込まれていると予想されるが、「その人」の主要なモデルは別にあると考えられる。

それが、「神(キリスト教)」である。

 

神(キリスト教)

まず、この作品には「冠が与えられる」「口づけ」「give love」のようなキリスト教を示唆する表現が出てくる。

「冠が与えられる」という行為は、キリスト教では神から愛するものへの報酬である(キリスト教では、信者は神から5つの冠を授かるといわれている)。また、キリスト教において口づけは愛情または敬意のしるしと考えられている。

さらに、「ギラ(give love  ※後半の歌詞から判明)」をそのまま命令文として訳すと「愛を与えよ」となる。これは、キリスト教におけるイエスの教え「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」に由来すると思われる。

 

また、「その人」が聖母マリアのようなローブやヴェールを身にまとっていること、冠が光輪のようであることなどからも、「その人」の立ち位置がキリスト教をモデルとしている可能性が高いだろう。

 

 

場所のモデル)ギリシャ神話(ローマ神話)と北欧神話

この少女が住む場所だが、おそらくギリシャ神話や北欧神話の神を祀る神殿ではないかと思われる。

 

一つ目の理由は、彫刻の髪型がセンター分け、ウェーブ、後頭部での編み込み、ロールであること。このような髪型は古代ギリシャや古代ローマ時代のものに近く、ギリシャ彫刻と検索すれば似たような髪型を見つけることができるだろう。

 

二つ目の理由は、少しこじつけに近いかもしれないが、3つの象徴だ。

この作品の中心的な場所には二つの女像とその中心の女性の絵画という、3つの象徴がある。

もしこれが崇拝する神の像(絵)であった場合、北欧にかつて存在したとされるウプサラの神殿(異教の聖地だった)をもとにしているのかもしれない。この神殿には中央にトール、そしてその左右にオーディンとフレイという3柱の神の像がある。

 

ただし、本作では、少女や他の人間が同じような黒い服を着て学んでいる様子が描かれており、まるで修道院のようにもなっている。

したがって、ギリシャ神話や北欧神話の神を祀る神殿ではあるが、その精神を学ぶ場でもあったのかもしれない。

 

時代のモデル)紀元後1世紀以降のキリスト教化時代

歴史的な背景を見てみると、ギリシャ神話(ローマ神話)や北欧神話のような多神教は、一神教であるキリスト教化によって衰退していった神話である。

 

1世紀ごろから広まり始めたキリスト教は、強大な古代ローマ帝国にまで及んだが、当初、多神教であったローマ帝国では受け入れられなかった。しかし、その勢いは収まらず、4世紀ごろになるとローマ帝国の国教としての地位を確立するまでになる。その過程で、キリスト教化が進むにつれ、アテーナーを含む多くの女神の神殿は聖母マリアに捧げられる教会へと姿を変えていった

 

また、北欧では8世紀ごろからキリスト教化が始まり、12世紀ごろには名目上すべての人の改宗が完了している。「名目上」といったのは、実際にキリスト教信仰が人々のなかで確立されるまでにはもっと長い時間を要したからだ。北欧のなかでは最も長い時間を費やしたスウェーデンのキリスト教化も、信仰の象徴であったウプサラ神殿の炎上とともに完了した。

 

したがって、この曲が、多神教を信仰する神殿の少女が、一神教のその人と出会った物語だとすると、最初に述べた仮説が生まれるわけだ。

 

 

では、次に、この仮説を持ちながら曲を解釈していきたい。

 

 

2. 曲解釈(1番):劣等感をもつ少女が【愛】を受け取るまで 

本作のタイトル(主題)では、ある少女が誰かの手をとるイラストが描かれている。つまりこの作品は、少女と「誰か(おそらく「その人」)」の交流が主体となった物語である。

 

あーもう本当になんて素晴らしき世界
んで 今日もまた己の醜悪さに惑う
だのに人を好きって思う気持ちだけは
一丁前にあるから悶えてるんでしょう

 

この作品の舞台となっているのは、女性と天使の彫刻が並んでいる場所だ。

先にも述べたように、神話の神を祀るような神殿なのではないかと思われる。

 

歌の最初の部分の映像では、少女は幼く、他の美しい人間と並んで学んでいる様が描かれている。

その中で、少女が他の人間と大きく違うのは、その顔にある大きな痣だ。

歌詞は少女の心情を中心に表現されており、少女が、世界や他の人間が美しくあるのに対し自分だけが醜い、と自分の容姿に劣等感を抱いていることがわかる。

しかしその一方で、少女も他の人間と同様に人を好きなるという感情を持っており、自分が不完全であるために、「好き」という感情を持つことに罪悪感さえ持っていることがうかがえる。

 

 

Ugly 正直言って私の顔は
そう神様が左手で描いたみたい
必然 この世にあるラブソングはどれひとつ
絶対 私向けなんかじゃないでしょう

 

ここでも上記と同様に、神様が利き手ではない左手で描いたかのように「自分の顔が醜い」ことを挙げ、世の恋愛事に自分は関係がないと思っているような歌詞となっている。

一方で、映像では、グラスを拭く少女が残された手紙に気づく様子が示されている。

つまり、自分は醜く、世の恋愛事に関わることができないと考えている少女に、まさに少女の夢見る「お誘い」の機会が来たのだ。 

 

使い道のないくちづけ 憐みを恣(ほしいまま)に
スパンコールの瘡蓋(かさぶた)で身を守る
愛されないくらいなんだ

 

その「お誘い」を受けた少女は、聖母マリアのような衣服を身にまとった「その人」と出会う。

「スパンコールの瘡蓋で身を守る」

スパンコールというと、派手目な女性が衣服の装飾として使っているじゃらじゃらとした金属やプラスチックの欠片を思い浮かべるかもしれないが、より細かな刺繍や光を反射する加工を施した布もスパンコールと呼ぶ。特に後者はウェディングドレスやヴェールにも使用されており、繊細で美しい印象となる。

ここでは、少女と会っている「その人」が身に着けている衣服を指しているのだと思われる。また、「瘡蓋」とは傷ができた部位にできるものである。したがって、精神的か身体的かはわからないが、そのような傷痕を「スパンコール」で飾り立てるようにして「身を守っている」のは、少女と対面している「その人」だ。

 

加えて、この場面の映像を見てみていこう。

最初の映像では、「その人」が冠を手に乗せている様子が描かれている。この冠は「その人」がつけている左右非対称のものとは別であり、「その人」から少女へ与えられたものだと考えられる。さらに、この先の場面では、少女が「その人」から口づけを受ける様子が描かれている。

上述のとおり、これらの行為は、【キリスト教】における神から愛するものへの行為だと受け取れる。

 

また、「スパンコールの瘡蓋で身を守っている」のが「その人」である場合、最後の「愛されないくらいなんだ」もまた、「その人」のセリフである可能性が高い。

この歌詞のあとにサビの「ギラ(give love 愛を与えよ ※後半の歌詞から判明)」が続くことを考えると、この二つはつながっている文ともとれる。

「愛されないくらいなんだ、give love(愛を与えよ)」

つまり、「愛されないことを嘆くのはよしなさい、愛は与えるものであり、そうすれば愛(神からの祝福)を得られる」という「その人」の教えだと解釈できる。これは、【キリスト教】におけるイエスの教え「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」に由来すると思われる。

 

【キリスト教】が「その人」の出てくる歌詞に関連するのであれば、最初のほうの「憐みをほしいままに」はどうだろうか。

歌詞だけ見ると、「恋愛事と無縁で誰かと恋愛的なキスをすることがない少女は、まわりの同情を一身に集める(いくらでも同情を得られる)」という意味に捉えることができる。

一方で、【キリスト教】関連だとすれば、

「誰とも親愛のキスをすることができなかった少女(処女)が、神のような「その人」からの、神の愛の一つである憐れみを一身に受けている」

ともとれるのだ。

つまり、神からの愛と同じように、「その人」から少女へ「愛」が渡されたといえる。

 

ギラギラ 輝いて私は夜を呑み
Rap Tap Tap Tap
今に見てろこのluv(ラヴ)
目に染みるは1mgの花火
Drag on Drag on
なんてファニー この世はビザール

ギラ ギラギラ ギラ

 

このサビのまでの歌詞は、自身が「愛」と関係ないという皮肉めいた歌詞であった。その一方で、映像では、そのような世の中を悲観し、諦めた少女に、「愛」と関わる機会が訪れたことを示している。

この変遷を表すのがまず「ギラギラ」だ。

ここの「ギラギラ」は、どちらかというと「キラキラ」に近い発音で、次の歌詞の「輝いて」からもわかるように世界が輝きだしたという表現だ。

そしてもう一つが「夜を呑む」という表現である。

「呑む」という動詞は「飲む」と同じような意味だが、より抽象的な対象に対して使うことが多く、圧倒する、まるまる包み込む、といった意味合いが含まれる。要するに、少女は、これまで持っていた劣等感や諦めといった精神的に闇の部分を呑みこみ、それに打ち勝ったのだ。

そしてそれを可能にしたのは、「その人」からの冠と口づけというの神の祝福のような「愛」である。

 

12月25日のクリスマスは、誰もが知るイエス・キリストの誕生日だ。しかし実は、ローマで最も長い夜がこの日で、その夜に打ち勝つという目的でイエスの誕生日と定めたという説がある。

つまり、【キリスト教】をモデルとする「その人」からの愛を受けるということは、「その人」の夜に打ち勝つというパワーをもらった、とも受け取れる。

「夜を呑む」にはそのような意味合いも含まれているのかもしれない。

 

その次の歌詞だが、「rap」も「tap」も、同じ「たたく」という意味合いを持つ。つまり、彼女の秘めていた「愛」のような感情を解き放つための扉は、今まさにたたかれ、そしてそれを解き放とうとしているのだろう。

ただし、「rap」には、犯罪容疑や罰といった意味合いも含まれている。これは、彼女が「愛」のようなものを解き放つのにまだ罪悪感を抱いているのか、それとも、これから解き放とうとするもののなかに、このあとの惨劇につながる負の部分が含まれているのか、ここでははっきりとはわからない。

 

そのような、一抹の不安要素を含んだまま彼女が解き放った「luv」。

「luv」はlove(愛)を意味するネット用語だが、loveよりは軽く、幼さを含んだ意味合いになる。つまり、まだまだ幼い「愛」の形を、「give love(愛を与えよ)」という教えのとおり、彼女は自身に同情をむけてきた(もしくは自身を迫害してきた)周囲へと示していくという意味ではないだろうか。

 

と、ここまで、どこか不安を抱かせるものの、彼女が「その人」との出会いで自身の闇の部分に打ち勝ち、「愛」のようなものを解き放つ、というポジティブな歌詞が続いてきた。

しかし、後半では少々様相が変わる。

 

「drag on」には、「ずるずると長引く」「不幸に過ごす」「足手まとい」といった意味合いがある。それは、やっとギラギラと輝き始めたこの場面には少々合わないものだ。そこで考えられるのが、もう一つの意味である「  (タバコなどを)吸いこむ」というものである。

もし、「その人」との触れ合いの中で「1mgの花火」、つまりほんの小さな火花や煙が「目に沁みた」、となると、「その人」がタバコを吸っていた可能性がある。

タバコは宗教上の儀式などにも用いられるが、基本【キリスト教】では、喫煙は悪習とされ、修道者の喫煙は禁止されていることも多い。

そうであれば、この歌詞は、「その人」が敬虔な信者ではないことを示しているのかもしれない。そして、そのような「その人」の「悪」に、彼女も「染め」られ始めていることを「目に染みる」と表現しているのかもしれない。

 

「愛」を知り、自身の中の幼い「luv」を解き放ち、ギラギラと輝き始めた少女。

一転した彼女の世界は、まさしくファニー(奇妙でおかしく)で、ビザールな(信じがたい)ものだったことだろう。

 

 

3. 曲解釈(2番):少女が「その人」のために【愛】を与える様子

Unknown お釈迦様も存ぜぬうちに
もう健やかに狂っていたみたい
それは世界の方か それとも私の方 ですか?
共生は端からムリでしょう

歌の1番で、「その人」の「愛」とその教えを得て、自身の「luv」を解き放ち始めた少女は、おろしていた前髪を編み込み、自身の痣を見せるようにして生きる女性へと成長する(以下「彼女」と表現する)。

 

「お釈迦様も存ぜぬうちに」

歌の1番では神だったのに対し、ここでは「神様も存ぜぬうちに」ではなく「お釈迦様も存ぜぬうちに」となっている。

神様とお釈迦様の大きな違いは、お釈迦さまは神のような存在ではなく、さとりを開いた「人」だという点だ。

現時点の彼女にとって、「神」はおそらく「その人」そのものなのだろう。時折彼女の周りに天使が出てくるが、その天使もまた「その人」と同じようなつぎはぎであることも、「その人」を信仰しているという表現だとうかがえる。

そのためここでは、万能である神(おそらく唯一神)以外で、物事をよく知る人物として「お釈迦様」が挙げられたのだと思われる。

 

映像では、状態が正常かどうか確かめるために医者が患者の目にライトを当てるように、彼女も目を開かれ、検査をされているような状況だ。

それを行うのは、つぎはぎの彫刻のような人物。このつぎはぎの彫刻のような像(以下、女像①)は、飾られた彫刻のような姿形で「その人」と同じようなつぎはぎの身体をしているが、おそらく「その人」とは別人物だと思われる。

この女像①は、「世界」という歌詞の際に映し出され、私とは対比のように表現されていることから、周囲の世界の人間を表現するものだろう。つまり、彼女が美しいと思っていた人々だ。

歌の1番では彼女と同じ人間の姿をし、かつ美しい顔をしていた周囲の人間が、2番ではその姿を変えている。この様子を踏まえ、彼女は世界(周囲の人間)が変わったのか、もしくは自身の世界を見る目が変わったのだと判断し、どちらかが「狂っている」と表現しているのだろう。

 

歌の1番で少女は、「神様が左手で描いた”みたい”」と、自分の容姿を他の人と異なるとは認識していた。しかし、それはあくまでも「みたい」という表現であって、自分と周囲の世界を分離して考えてはいなかった。

しかしここでは、「周囲の世界」と「私」のどちらかが狂っているという表現をしており、この二つを完全に別物だと捉えている。「それとも私のほうですか?」では語尾が丁寧語となり言い方も強めとなっていることから、「狂っているのは本当に私のほうでしょうか?」という皮肉にも聞こえる。そして彼女の結論は、「世界」に対し、共生はできないというものだ。

つまり、彼女は世界(周囲の人々)を拒絶しているととれる。

 

  

マガイモノこそかなしけれ 無我夢中疾る疾る
強い酸性雨が洗い流す前に
蛍光色の痣抱いて

メラメラ 火を噴いて私は夜の狼
Rap Tap Tap Tap
そこで見てろこの乱舞
強くおなり あなたなりの武装(メイクアップ)で
Flap up Flap up
不意に不安に

 

「マガイモノこそかなしけれ」「強くおなり、あなたなりの武装で」

こららの言葉は、口調が上品なこと、Adoさんの発音が穏やかなことから、「その人」の教えなのだと思われる。

嘘ばかりのものは醜い。だからこそ、彼女は「その人」の教えを守り、自分を嘘偽りなく見せるように前髪を編み込んで、自分の特徴である痣も見せるようになったのだといえる。

教科書の重要な部分を蛍光ペンでなぞるように、彼女は痣を強調し、自分を守る武器としたのだ。「その人」のスパンコールと同じように。

「強い酸性雨」とは、そのような彼女に対する周囲の言葉や行為だろう。酸性雨は人体や生態を傷つけるものである。また、フルオレセインなどの蛍光色素の発色はph依存性があり、酸性に傾くとその発色を失う。つまり、彼女を傷つけてその輝きを奪うという点から、「酸性雨」という言葉が使われているのだと予想される。それに対し、彼女は、その武器を失くさないよう大事に大事に抱えて生きている。

 「flap」とは「羽ばたき」のことで、自分を嘘偽りなく表現し、痣を自分なりの魅力として無我夢中で進む彼女の様子を、大きく羽ばたくと表現しているのだろう。

 

 

しかし、それは突然終わる。

 

 

「今に見てろこのluv」の部分で、彼女はまるで手首を拘束されているかのような装飾品を付け、手を後ろ手にしている。また、「不意に不安に」の部分では、上着を脱ぎ、肌を見せた状態で、同様のポーズをとっている。まるで、自身を生贄として誰かに差し出しているような恰好だ。

そして、「不意に不安に」の部分では、そのような彼女の後ろからだれかの手が伸びている。この手は「その人」や女像①と同様につぎはぎの手であるが、爪が長いことから別の女性(以下、女像②)だと予想される。

 

また、「メラ」は「ギラ」と同じ用法だと考えると、「make love」の略だと予想される。「make love」は恋をするといった意味もあるが、性行為をするという意味のほうがつよい。

さらに、この場面を示すキーワードとなるのが、「夜の狼」という表現だ。「狼」は羊を狙う悪役としてよく登場する生き物だ。【キリスト教】では、使徒であるパウロが、「自身の欲などのために神の教えをごまかしたり別の内容を組み込んだりして、信者を食い物にしよう(自分のほうへ引っ張り込もう)とする人物(※私なりのだいたいの解釈です)」のことを「狼」と表現している。

そして、この「狼」にわざわざ「夜の」がついているということは、「昼の」狼もいることを示しているのではないだろうか。

つまり、この表現は、「その人」がここの信者を別の宗教などに取り込もうとしていることを示しており、「昼」は「その人」が公に布教をすすめ、「夜」は彼女が秘密裏に布教を進めていると受け取れる。特に彼女は、信仰する「その人」のために、自身の身体を魅せるという武器を手に入れ、その武器を使って女像②に身体(luv)を差し出したととれる。

 

 

しかし、その次には、彼女に女像がささやくような場面に移る。ここの場面は、女像の爪が短いこと、そして彼女が服を身に着けていることなどから、上記の生贄場面とは別だろう。つまり、彼女が自身を差し出したようなエピソードのあとに、先に出てきた女像①が何かをささやきかけていると予想される。

 

 

この後に続く場面を考えれば、囁かれた内容は、「その人」の本性だ。

 

4. 曲解釈(ラスサビ):失われた「神」と「彼」

孤独は燃料(ガソリン) 卑屈な町を行く
目を閉じて もういいかい もういいかい
もしも神様が左利きなら どんなに幸せか知れない

「その人」のため、「その人」の教えを忠実に守りながら突き進んできた彼女は、女像①のささやきから槌を手にする。

 

上述で、この槌を理由に彼女のモデルが【北欧神話】のトールである可能性を挙げたが、その場合、女像①のモデルはロキである可能性がある。

ロキは【北欧神話】の神だ。トールやオーディンの敵である巨人の血を引いているが、オーディンの義兄弟として神の仲間入りをしている。とても賢いが度を越えた悪戯好きで、人をそそのかしたりする描写が多いことでも有名だ。

ロキは、なかでもトールと仲が良く、連れ立って旅に出ることもあった。ひどい悪戯でトールに怒られることも多かったが、その機転でトールの危機を救ったこともある。トールの持つ槌(ミョルニル)も、実はロキの行動によって得ることができた武器だ。

前の場面のささやきとその後に登場する槌、これは女像①がロキの立ち位置にいることを示しているのかもしれない。

 

次に続く「卑屈な町」は、「私がいちばんきれいだったとき」という詩からきていると思われる。

この詩では、「私」が最もきれいだった時代(若かりし頃)、世界は戦争によりひどい有様だったことが表現されている。その中で、「私」は戦争に負けたことを認められない憤りを持っており、負けた相手である米国人にへらへらして取り入ろうとする人々の様子を「卑屈な町」と呼んだのだと思われる。

 

ここでいう「卑屈の町」は、自身を偽りながら生きている周囲の人々のことだろう。上述の仮説通り、この話がキリスト教化を表しているのならば、人々の中には、国からの強い圧力のために、表面上のみ改宗した者も多かっただろう。

女像①や女像②の身体がつぎはぎなのは、そのような表面のみを取り繕った様を表しているのかもしれない。

しかしそれでは、同じくつぎはぎの「その人」はどうなのか、と思う人もいるだろう。同じ表面のみ取り繕っている人が「マガイモノこそかなしけれ」と言っても説得力はないだろう。ただ、最初の「なんてファニー」の部分を思い出してほしい。その時の映像では、少女が「その人」の手を取るシーンが描かれているが、「その人」の手は、実はつぎはぎではないのだ。

つまり、あの時の出会いは、少女にとってまぎれもなく「嘘偽りのないもの」だったはずである。

 

そうして彼女は自身を偽りながら生きている人々を後目に、かくれんぼでもしているかのように「その人」を探す。

かくれんぼを題材にした詩や歌は多い。そして、ほとんどの場合、「孤独」とセットになっている。それは、見つけてもらえないかもしれない逃げる人間の寂しさだけでなく、誰も仲間がいないために誰かを探す鬼の寂しさも理由だろう。

自分が孤独でないことを確かめようと、世界と共生できない彼女は、「その人」を探すのだ。

 

「もしも神様が左利きならどんなに幸せかしれない」

最初に彼女は、自分の顔を「神様が左手で描いたみたい」と表現していた。

それは神様が利き手でない手で描いたから自分が醜いのだろう、という意味だったが、それがもし逆だったのなら。

歌詞だけで見れば、「世界(周囲の人間)ではなく(利き手で描かれた)自分が正しい」という意味にとれるだろう。

その一方で、映像では、少女だった彼女に手を差し伸べる「その人」が、彼女の痣と同じような位置を損傷している様子が描かれている。この映像とともにこの言葉の意味を考えると、

神様が実は左利きで、自分の姿をもとに人を描いたのなら、神様は私と同じ姿のはず。だから、「その人」は神様のはず。

となる。

つまり、「その人」が自分の神であることを望んでいるともとれるのである。

 

ただし、歌詞は「もしも~・・・なら、どんなに幸せかしれない」ということなので、彼女はそれはあくまで理想であり、現実は異なるということを理解している。 

 

ギラギラ 輝いて私は夜を呑み
Rap Tap Tap Tap
今に見てろこのluv(ラヴ)
目に染みるは1mgの花火
Drag on Drag on
なんてファニー この世はビザール

 

結局、「その人」の中身は作り物(ケーブルなどの人工物いう表現から)だらけの「マガイモノ」だった。

そして、彼女は「その人」を槌で打ち付け、破壊する。

「今に見てろこのluv」

この歌詞は、1番では周囲の人間に対するものだったと考えられるが、ここではおそらく、「その人」に自身の愛を示すための言葉なのだろう。

 

ここで使われている愛は、一番と変わらず、loveではなくluv。これは、【キリスト教】における愛(love)と区別しているのかもしれない。ここの映像についてもいくつか気になる点があるが、これらについては後程合わせて考察をする。

  

ギラ ギラギラ ギラ ギラギラ
Give Love 花は満ちて
ありのまんまじゃいられない 誰も 彼も
なんて素晴らしき世界だ!
ギラついてこう

 

ここで最後のサビになり、「ギラ」が「give love」であったことがわかる。

ただし、もしこれまでの「ギラ」が「give love」ではなく「give luv」だったとすると、これは彼女の変化を示している可能性がある。

つまり、今までは彼女の「愛を与える」という行為は「luv」のように幼さが残るものであり、その幼さを、「give love」をうまく言えないつたなさとして「ギラ」と表現していた。しかしここで彼女が「その人」と決別をすることで、自分なりの「give love」へと成長したということを示しているのかもしれない。

それを示すかのように、このサビの一回目の「ギラ ギラギラ」と二回目の「ギラ ギラギラ」は大きく歌い方が変化し、「give love」へと変化していくのだ。

 

「ありのままじゃいられない」「誰も」「彼も」

そして少女は、この世界で誰も、ありのままで過ごすことはできないということを悟る。

ここで注目すべきは「彼も」という言葉だ。

通常、「誰も彼も」は一つのまとまった用語であり、「みんな」という意味を示すものである。一方で映像では、「誰も」と「彼も」が別のシーンで記載されている。特に、彼女はこの「彼も」で、その人の破片が舞っていた後ろを振り返るのだ(※「ギラギラ)の歌詞部分では、彼女は冠を付けて中央の絵のほうを向いており、その背後に「その人」の破片が舞っている様子が描かれている)。 

 

少し前のシーンに戻り、「なんてファニー」のシーンを見てみよう。

ここで出てくる壊れた彫刻は、おそらく彼女が壊した「その人」だと思われるが、その体つきは男性のものである。

つまり、「誰も彼も」の「彼」とは、男性である「その人」のことだ。

 

今まで出てきた映像のなかで、男性を示すような部分は、実はここのみである。

上述の仮説のとおり、この場所がもし女神を信仰する場所であり、男性がいないことを考えると、女性中心の場所であったことがうかがえる。

この仮説では、彼女のモデルをトールと考えているが、もしかすると「その人」にもトールの逸話を反映させているのかもしれない。【北欧神話】では、敵である巨人の領地に侵入するために、トールが女装をする話がある。この女装案はロキやヘイムダルによるもので、「トールに花嫁のヴェールを被せ、花嫁の恰好をさせよう」というものだ。

つまり、女性中心の信仰の地であった映像の場所に、「その人」は聖女マリアのような女装をして入り込み、布教を目論んだ、とも解釈できる。まるで「羊の皮を被った狼」である。

  

「なんてファニー」という歌詞は、1番では「funny(おかしい)」と解釈したが、もしかするとここでは「fanny(セックスの対象としての女性)」という意味で、「その人」を皮肉っているのかもしれない。

 

 

そして、歌詞は冒頭に戻る。

「なんて素晴らしき世界だ!」

 

この歌詞は、世界として表現されていた女像①が壊されている様子とともに映し出される。 

先ほど、女像①のモデルがロキではないか、という話をしたが、ロキには実は宿敵がいる。それが、「ヘイムダル」だ。

ロキは最終的に、神ではなく巨人側につき戦う。そしてこの戦いでは、ヘイムダルと相打ちになることが知られている。

ヘイムダルの名前は「光の神」「世界の花」という意味があり、波の間から見える暁光の神といわれている。角笛で巨人の到来を知らせる役目を持ち(ラグナロクの始まりを知らせる)、キリスト教でいうところの終末を知らせるガブリエル(神のメッセンジャー、唯一女性説がある)と似たような配役だ。

  

また、もう一つ注目したい映像が、「ギラついてこう」の部分だ。

この映像では、「ギラついてこう」の文字と重なった彼女の目や髪の部分が、金色になっている。

この「ギラ」という文字だが、前半は白く、「その人」を壊すあたりから黄色くなり、最後の「ギラついてこう」の表現となる。

周囲の色が青色なので、強調のためにその補色(色相環の相対する色)である黄色を用いたと思われるが、もし、彼女が金髪であることを表現しているとすると、さらに面白い解釈ができる。

純粋な金髪というものは、実は大変少ない。その希少性からか、【キリスト教】などの宗教画では、太陽の色を映した色として理想的な女性の条件の一つであり、神に愛されたものの特徴とされていた。また、使徒のひとりであり、「の子」とも呼ばれていたヨハネは、金髪で女性的に描かれることもある。彼は自分のことを「イエスの愛しておられた者」と表現しており(※異論もある)、弟子のなかでは唯一殉教せず、「神の愛」を広めていったとして「愛の使徒」とも呼ばれる。

仮説の際に【ギリシャ神話】の翼をもつ女神として挙げたエーオースもまた、金色の髪色を持つものとして表現されることが多い。エーオースの特徴は、ヘイムダルと似た曙の女神であり、人間の男に恋をし続ける呪いをかけられている点だ。エーオースと同一視されるアウロア(ローマ神話)は、オーロラの語源となっている女神である。なお、低い緯度のヨーロッパでは赤いオーロラがみられるが、これは天の炎と解釈され、【キリスト教】社会では不吉な前兆とされた。

 

 

神の子であるイエスに愛され、愛を広めていったヨハネ【キリスト教】、夜の闇を払う暁の光の象徴であり、ロキの宿敵であるヘイムダル【北欧神話】、同じく夜の闇を払う女神であり、恋をし続ける呪いをかけられたエーオース【ギリシャ神話】、また、キリスト教で不吉な象徴のオーロラであるアウロア【ローマ神話】。

これらはどれも、彼女の特徴と一致しているように思える。

彼女は、コンプレックスを持ちながらも誰かを好きになる気持ちを抑えられずにいた。そのなかで「その人」と出会い「愛」を周囲へと広めていく。そして最後には「その人」や「女像①」を壊し、夜を飲み込むような暁の光のように、ギラつきながら、自身の愛を広めていくのだろう。

 

 

5. この素晴らしき世界

ここまで、宗教的な仮説とともに曲を解釈してきたが、この曲にはもう一つ大きなテーマがあると思われる。

それは、【二項対立】だ。

 

この曲の世界観には、いくつかの二項対立が示唆されている。

一つは仮説である異教とキリスト教、さらに「卑屈な町」では勝者と敗者といった具合だ。

特に、「卑屈な町」が出てくる詩、「私がいちばんきれいだった時」の最後は、

 

「フランスのルオー爺さんのように

                ね」

 

という言葉で締めくくられているが、この人物も二項対立と密接に関係する。

この「ルオー爺さん」というのは、フランスの画家「ジョルジュ・ルオー」のことだ。ルオーもまた、宗教的観念とともに、多くの二項対立を絵にしてきた。

 

ルオーは常に、キリストの「受肉」や「受難」の真実に大きな関心がありました。しかしその一方で、第一次世界大戦後の矛盾に満ちた世の中で、虐げられる者と虐げる者、裁かれる者と裁く者、さらに言えば、着飾った者と素顔といった二項対立に注目し、初期は、社会の底辺で生きる人々の悲哀や社会の矛盾への憤りを主題とする独自の画風を切り開いていきました。

(ルオーの宗教的メッセージが愛される理由「ジョルジュ・ルオー──聖なる芸術とモデルニテ」パナソニック 汐留ミュージアムで | クリスチャンプレスより引用)

 

このような二項対立を明確に表現するのが、「この素晴らしき世界」だろう。

「この素晴らしき世界」は、様々な歌の歌詞としても見かけるが、最も有名なものはLouis Armstrong(1901-1971)の「What a Wonderful World」だ。

知っている人も多いだろうが、この歌の背景には、ベトナム戦争や人種差別(King牧師による公民権運動)が関わっている。白と黒、強者と弱者といった二項対立の世の中で、多くの色や赤子の成長という多様性のある素晴らしい世界を歌った曲だ。

(参考:第143回 名曲What a Wonderful World (1967, Louis Armstrong)が伝えるメッセージ | For Lifelong English

 

個人的な意見だが、ギリシャ神話や北欧神話では、嘘やずる賢さも知恵の一つとして考えられていた。しかし、国が発展していき、統治する領土の拡大や他国との対立が生まれるほど、神話のような多様な考え方ではなく厳格なルールが必要になってきたと思われる。その点で、善と悪を二極化した【キリスト教】は重要な役割を担ったことだろう。

 

わかりやすい基準は、人々を生きやすくする。何も考えずにその考えに沿ってさえいれば、幸せになれるのだから。しかし、その一方で、基準に沿わないものはすべて排除されることになる。

 

「花は満ちて」

最後に、この「花は満ちて」という歌詞について解釈したい。

この「花」だが、私は「アザミ」ではないかと考えている。

 

アザミは、【ギリシャ神話】では、失恋した女神の作り出した花であり、【北欧神話】では雷神トールの花とされている。また、【キリスト教】では、キリストの磔に使用した釘を聖母マリアが地面に埋めた際に生えてきた花だ。

そして、原罪に関わる花でもある。

知恵の実を食べ、楽園から追放されたアダムは、イバラやアザミのような棘のある植物の生えた中で食べ物を探さなくてはならなくなったとされる。

つまり、人は、自分で考えるという知恵を得て、棘のあるアザミの大地で生きていくこととなったのだ。

 

曲の中で、彼女は素晴らしい世界と醜い自分、狂った(マガイモノの)世界と「その人」に愛される自分、という二項対立のなかで生きてきた。しかし、最後に彼女は、自分の中に二極化された世界を生み出していた「その人」を壊し、自分自身の足で歩いていく。この「壊す」と「歩く」は、映像の中で数少ない彼女の自発的な行為だ。

そして、彼女が「その人」の身に着けていたアザミの花のような冠を戴くという行為は、「神に成り代わる」ということも示唆しているのだろう。彼女の中で「神」だった「その人」は今はいない。今は、彼女自身が彼女の世界の「神」として、自分で考え自分で判断し、生きていくことになる。

 

まとめると、この曲は、このような二項対立の世界からの脱却、そして自分自身の考えを持つことを表しているのではないかと、私は考える。

最初の仮説で、彼女のモデルとして述べたアテーナー【ギリシャ神話】は、自らの信じる正義のために戦う知恵の女神だ。おそらく彼女も、この不条理な世界の中で、自分の信じる道を歩んでいくのだろう。

最後に、アザミの花言葉は、 「触れないで」「厳格」「報復」、そして「独立」である。

 

 

 

 

 

以上、めちゃくちゃ長くなってしまいましたが、ここまで読んでくれた人はいるでしょうか...

すこしでも楽しんでいただけたのなら幸いです。

いろんな捉え方ができる作品なので、いろんな意見があると思います。

もしよければあなたの解釈を教えてくださいね。

 

 

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