さて、やっと時間ができたので、いままでずーーーーーっとやりたかった曲の考察・解釈をしたいと思います。
その曲はずばり………………
永遠のあくる日
歌詞や曲調は比較的シンプルな曲ですが、ここまで美しい曲に仕上げるてにをはさん(Lyrics & Music:てにをは様、Piano Arrange:西村奈央様、Mix:Naoki Itai様)にはほんと驚きですし、ここまで純粋無垢な少女を創り上げる沼田ゾンビ!?さん(Illust:沼田ゾンビ!?様、Movie:ナノン様、Image Director:ORIHARA様) にも感嘆の声しか出ませんし、その物語をここまで清らかに歌い上げるAdoさん(Vocal:Ado)にも拍手喝采なわけです。
きっと、多くの人にとってとてつもなく清らかで、美しく、切ない曲に感じることでしょう。
でもね、はっきり言ってね、この曲、
めちゃくちゃ痛烈な歌
なんですよ。
ここでは、『永遠のあくる日』の闇が分かる考察・解釈をしていきたいと思います。
最後まで読むと、この曲の見え方が変わると思いますよ。
1. 「ギラギラ」との関係
2022年3月14日のホワイトデーに公開された「永遠のあくる日」。
公開に際し、作詞・作曲を担当したてにをは氏は以下のようなコメントを寄せている。
てにをは氏のコメント
人類はもうずいぶん長い間「あいしてる」を様々な言語で言い続けているけれど、そろそろ飽きちゃったりしないんだろうか?
我ながらずいぶん純朴な疑問ですが、そんな疑問を出発点としてできあがったのがこの「永遠のあくる日」です。
「ギラギラ」を歌ったAdoが今度は「あいしてる」と歌い、連呼する。その「あいしてる」には何かしらの“意味”や“趣”が宿りそうな気がしませんか? 「ギラギラ」がバレンタインデーの贈り物だとしたら「永遠のあくる日」はホワイトデーのお返しです。
2月14日バレンタインデーに公開された「ギラギラ」。
そのお返しとして3月14日ホワイトデーに公開された「永遠のあくる日」。
この二つの曲のテーマは、「ギラ(give love)」と「あいしてる」からわかるだろう。
それは、愛。
これらの曲は、同じ場所にいた少女らの愛を、それぞれの視点から描いている。
本作「永遠のあくる日」は、愛されないと悲観する少女(ギラギラ)を実は愛していた少女(あくる日)の話で、当事者らは報われないけれど、視聴者が報われる、悲しくも優しい物語。
その物語を補助するように、曲調や歌詞にはいくつかの仕掛けが施されている。
たとえば、「ギラギラ」では、顔に痣を持つ少女が「この世にあるラブソングはどれひとつ 絶対 私向けなんかじゃないでしょう」と人生を悲観したり、「使い道のない口づけ」と自信の顔の醜さを皮肉っていた。しかし、そんな「ギラギラ」の少女に「あくる日」の少女はあこがれており、「醜いぼくらのラブソング作ろう」と写真にキスをする。
このように「永遠のあくる日」は、「ギラギラ」に対応させてつくられていたりするのだ。
その対応を考えると、実は、この曲の舞台が明らかとなってくる。
私は以前、「ギラギラ」を多神教と一神教の関係性から考察させてもらい、単純な二項対立の世界から脱却して自分自身の考えを持つことを表していると解釈した↓↓
(めちゃ長い考察・解釈なのでお時間があるときにでも読んでもらえると嬉しいです)
お返しとしての曲である「永遠のあくる日」もまた、宗教、特にキリスト教との関係が最初の歌詞からうかがえる。
恋をしてしまった 涙の痕
洗う雨は虹の予告編だ
映像では、白いハトが舞う中、ブランコに座るセーラー服の少女(以下、少女)が登場する。
ここの歌詞だけ見ると、叶わない恋をする少女の辛さと、それでも未来は明るいといった表現ととらえられるだろう。
だが、それだけではない。
上記でも述べたように、宗教的観点から見てみると面白いことがわかる。
「洗う雨」「虹」「ハト」
キリスト教の観点からこれらのキーワードを見てみると、気づく人もいるのではないだろうか。
そう、ノアの方舟である。
ノアの方舟とは、旧約聖書に出てくる話のひとつ。
【概略】あるとき、神様は、大洪水を起こして堕落した人間たちを滅ぼそうと考える。その際、神に従順で無垢な人であったノアにはそのことをあらかじめ伝え、船をつくって親族や動物たちの番(オスメスのペア)、食料を積みなさいとお告げをする。船完成後、地上を洗い流すかのような40日に及ぶ大雨を降らせ、地上の生き物を滅ぼす。そして、生き残ったノアたちを祝福し、もう大洪水で滅ぼすことはしないという約束の印に空に虹を掛ける。(ちなみにノアは、大雨のあと、ハトを放して帰ってくるかどうかで水が引いたことを確認した)
少女の服がセーラー服であること(※セーラー服は船乗りの服がモデル)や、サビの背景には羅針盤のようなデザインの絵が描かれていることなどから、この曲が船をイメージしていることは明らかである。。
さらに、この曲に登場するのは神官のようなつぎはぎの人びと。
前作、「ギラギラ」からの続きだと解釈すると、この人々はキリスト教のような一神教の人びとだと解釈してみよう。
そうすると、この曲の舞台は、一神教を信じるものだけを救おうとする船といえるのだ。
2. 永遠が終わった日
続く歌詞を考察していくと、今度はタイトルの意味がわかってくる。
なぜ君がここにいないんだろう
“世界一有名な言葉”強がって恨んでみたり
La La La Love
ここでは、少女が「世界一有名な言葉」を恨んでしまうくらい、「君」がここにいないことを悲しくおもっている様子が描かれている。
その「世界一有名な言葉」とは、もちろん、そう、
「あいしてる」
である。
まるで映画のエンドロールだ
あいしてるあいしてるあいしてるなんて「さよなら」みたいに云わないでよね
もうあいしてるあいしてるあいしてるなんていらない
ここでいう「君」は、二番に出てくるが、「ギラギラ」の少女である。
以前の考察・解釈では、「ギラギラ」の少女はヴェールを被った人(以下、「その人」)に従い、一神教のキリスト教ような教え(愛を与えよ)を広めていた。
彼女の「ギラ」はすべての迷える子羊たちに平等に与える愛であり、「あくる日」の少女にとってまさしく「さよなら」だといえるだろう。
「ギラギラ 」の少女は「その人」に連れられ、「あくる日」の少女のもとを去った。「give love」という教えの通り、愛を振りまくために。
そして、誰に対しても「平等な愛」は、特別な愛をつくらないということでもある。
「ギラギラ」の少女の特別になりたかった「あくる日」の少女にとって、この「あいしてる」は、「あなたは特別ではない」という言葉でもあるのだ。
「今、時間を止めたね。1秒くらい」 見惚れていたなんて云えなかったよ
君だけがいなくて 永遠のあくる日みたい 神様それはあんまりじゃないか
ここで、「あくる日」の少女が「ギラギラ」の少女に恋をしていることが分かる。
実際に一秒ほど音楽が止まるなど、とてもおしゃれなシーンだ。
「時間が止まった」と感じるほど見惚れるということは、「あなたと過ごす時間は永遠のように感じる」ということを意味する。
この部分は、実は、タイトル「永遠のあくる日」が今現在であることを意味している。
つまり、「ギラギラ」の少女がいない現在は、「永遠のように感じたあなたと過ごす日々が過ぎ去った今」=「永遠が明けてしまった次の日」ということだ。
3. 万能で都合のいい言葉
まるでベタな映画のエンドロールだ
あいしてるあいしてるあいしてるなんて正しいことばっか云わないでくれ
もうあいしてるあいしてるあいしてるなんて
少女は「ギラギラ」の少女への恋心とともにその写真(絵?)を胸に抱える。しかし、写真は立場の高い司祭のような人々に取り上げられそうになり、結果、壊れてしまう。
ここの歌詞でも、「あいしてる」という言葉は連呼され、そしてそれは「正しいこと」であると少女は認識している。
これはどういうことを意味するのか。
この場面で考えられることは、司祭らの行動はすべて「愛ゆえに」行われているということだろう。
つまり、「あなたを愛しているからこそ、このようなこと(写真を奪う行為)をするのです。あなたを正しい道に進ませるために。」ということだ。
世の中に「愛」はたくさんある。
誰かを想って笑顔になるのも、涙を流すのも、怒ってしまうのも、愛しているから。
賛同はできないが、傷つけたり、ストーカーをしたり、虐待をしたりするのも、愛しているからと言う人もいるだろう。
「あいしてる」は、全ての行動を説明する、万能で都合のいい言葉なのである。
では、なぜ少女が抱える「ギラギラ」の少女への恋心は、この船でいう「神様」が正しくないとするものなのか。
その理由は三つほど考えられる。
一つ目は、同性であること。
キリスト教のような宗教では、宗教内でも意見は分かれるが、同性愛を罪とする風潮も弱くはない。
二つ目は、信仰が異なること。
前回考察したとおりであれば、「ギラギラ」の少女は、ここでいう一神教の「神様」に従うのではなく、自分自身で考え、行動していく道を選んだ。
つまり、一神教からは抜けているため、神官たちからすれば「滅ぼすべき対象」であるといえるだろう。
三つ目は、少女の立場。
この点に関しては、少し長くなるので次の「4. ブランコと少女」で考察したい。
4. ブランコと少女
さて、ここまでは、報われない悲しい恋心を美しく表現し、「ギラギラ」の少女の境遇に同情していた視聴者にとっては救われる優しい曲である。
しかし、この曲にはまだ、解釈すべき点が残っている。
そう、最初に考察したノアの方舟についてだ。
そのためには、少女の立場を明確にしていきたい。
少女の、この船での立場を示唆するヒントは2つある。
1つ目のヒントは、少女の傷。
特に、少女の右頬を見てほしい。
絆創膏とガーゼ。どちらも切り傷や擦り傷など出血があった場合にする処置である。
それが二つ重なっているということは、おそらく、同じ個所を二回、別にケガしたということ。
つまり、一度ケガをし、絆創膏を張っている状態で、さらに近い箇所をケガしたということだ。
少女は小さいころからケガが多く、ただ、少しドジっ子な部分があるだけかもしれない。
けれども、わざわざ二回も、しかもケガしにくそうな頬という部位をケガするだろうか?
ここを考察するために必要なのは、キリストの有名な言葉「右頬を殴られたら左頬を差し出せ」だ。
「右頬を殴られたら左頬を差し出せ」は、イエスキリストの許しや慈悲の表現だとする解釈が一般的だが、別の解釈もある。
通常、右利きの人が右手で誰かを平手打ちすると、左頬をぶつことになる。しかし、昔は卑しい身分の奴隷を殴る際に手のひらを使うと手が汚れると考えられていたため、手の甲を使って右頬を殴っていたそうだ。そのため、「右頬を殴られたら左頬を差し出せ」というのは敵を許すということではなく、相手に手のひらで殴らせ、自分と相手が対等であることを示しているという解釈もあるらしい。
参考:キリスト教「右頬を殴られたら左頬を差し出せ」に込められた真の意味とは!? ハーバード大の講義でわかった衝撃の解釈ーオカルトニュースメディア トカナ
この曲で問題となるのは前述の部分で、「卑しい身分の奴隷を殴る際には手の甲を使う」というもの。
手の甲で殴れば、その指の先には爪があるため、切り傷となりやすい。
そして、少女は、右頬に複数回、出血するようなケガをしている。
つまり、少女は奴隷のような身分の低い立場だったことがうかがえる。
では、なぜ身分の低い少女が、ノアの方舟のようなこの宗教の人びとにとって大事な船に乗っているのか?
改めて、ノアの方舟の役割を思い出してもらいたい。
方舟は、種を存続させるためのもので、様々な動物種の番(つがい)を乗せていた。
つまり、この少女は、ノアの方舟でいう存続のための動物の番にあたるのではないだろうか?
それを示唆するのが、2つ目のヒントである、「ブランコ」である。
この曲は、かわいいフリル付きセーラーを着た少女がブランコに乗っているシーンから始まる。
学生が公園のブランコで物思いに耽っているような青春を感じさせるが、キリスト教の影響の強い西洋絵画でのブランコは少々意味合いが異なってくる。
特に有名なのが、ジャン=オノレ・フラゴナールの「The swing (ブランコ)」だ。
実はこれ、ド下ネタな絵である。
この時代では、ブランコは性行為そのもの、靴が脱げることは貞節の喪失を意味する。
絵画右側の後ろの男性が、司祭もしくは女性の年の離れた夫(もともとは司祭でと依頼されていたが、作者によりに変更された説がある)。
手前の男性が、女性の愛人(依頼者の若い頃の姿)で、突き上げた手は性的に興奮していることを示すらしい。
つまりこの絵画は、フリルのスカートをひるがえしている若い女性の、愛人との逢瀬を暗示しているのだ。
参考:人騒がせな名画たち. 木村泰司 著. 株式会社マガジンハウス. 2018.
さて、ここで曲の動画をもう一度見てみてほしい。
曲の後半で、少女は写真を奪われそれを取り返そうとするが、その際、下に落ちるような体勢で描かれている(2:05~)。
私は、最初にこの動画を見たときに、なぜこの少女がこのような表情をしているのか疑問だった。
その前まで写真を取り返そうと必死だったにも関わらず、この場面では感情が表現されていない。むしろ諦めたような、絶望したかのような無表情だ。
しかし、このフリルのセーラーを着た少女が「ブランコ」に乗っていたことを考えると、怖い仮説が浮かんでしまう。
それは、彼女はまさにノアの方舟でいう動物の番としてこの船に残されており、決められた相手と番になることを強制させられているのではないだろうか?という説だ。
まず、ブランコについて。
少女がブランコに乗るシーンは、曲の冒頭と、この場面とは離れているように思える。
だが、下の冒頭のブランコシーンと写真を集めるシーンの横顔を見比べてほしい。
実は、まったく同じ絵なのである。
作画コストの削減でないとすると、ブランコに乗るシーンと写真を奪われるシーンは、同時点のものと考えられる。
そして、舞台が船であることを考慮すると、ブランコがあることは少々おかしい。
したがって、ブランコは、写真を奪われるシーンの心理的な表象を表している可能性がある。
次に、手。
ジャン=オノレ・フラゴナールの「ブランコ」では、女性のスカートの下に夫(元は司祭)の手が二本、愛人の手が一本、伸びるように描かれている。それと同様に、あくる日では、落ちていく彼女の下側(画面上部)に、おそらく司祭と思われるつぎはぎの手が二本、つぎはぎでない手が一本伸びている。
最後に、靴。
場面が切り替わり、写真は割れ、それに少女がキスをするシーン(2:45)では、少女の靴が片方脱げている。
共通点をまとめると、以下のようになる。
・少女の乗るブランコ=性行為
・少女に伸びる司祭や愛人の手=少女を操る人物と番となる人物
・操を立てていた(心に決めたヒト以外に身体を許さないこと)ともいえるギラギラの少女の写真を奪われ、脱げてしまう靴=貞節の喪失
これらを踏まえると、悲しくも美しい失恋の曲が、一気に違う曲にみえてくるだろう。
さらに、動画のなかでは数多くのハトが出てくる点にも注目してみよう。
キリスト教において、ハトは、清さ、無害さ、素直さの象徴。
そして、ノアの方舟で、大洪水が地上の悪を一掃したことを知らせる、平和の象徴でもある。
したがって、ハトが船に帰ってきているということは、一神教から抜けた「ギラギラ」の少女は、もういないのだ。
ここまでくると、少女がなぜ絶望したかのような表情をしていたのかわかるだろう。
うん。
神様、それはあんまりじゃないか…
5. なぜ言わずにいられないのか?
聞き飽きたでしょう? ありふれた言葉
それでもロックバンドもアイドル歌手も
「あいしてる」「あいしてる」だったんだ
世の中には「あいしてる」があふれている。
そしてこの言葉は、ギラギラの少女が去った原因であり、強制的な番のための命令でもある。
あくる日の少女にとっては、恨めしい言葉。
それでも、なぜ、少女を含め私たちは、懲りもせず「あいしてる」と歌うのだろうか。
きっと、それは言わずにはいられないほど、人の胸を締め付ける強烈な想いなのだ。
少女は、傷がつくことも顧みず、割れた少女の写真へとそっとキスをする。
恨めしい言葉であろうとも、都合のいい言葉であろうとも、彼女の想いもまた、「あいしてる」と表現することしかできないほど、苦しくて辛くて、幸せな想いなのだろう。
(醜いぼくらのラブソング作ろう)
どうして云わずにいられないんだろう
(醜い あいしてるあいしてるあいしてる)
おんなじ言葉繰り返している あいしてる
(ラブソング あいしてるあいしてるあいしてる)
「醜い」という言葉は、「ギラギラ」で見た目を表現するために出てきた。
ここでも「ギラギラ」の少女と「あくる日」の少女の見た目の痣や傷のことを指しているのかもしれないが、私は違うと確信している。
この「醜さ」は、「あいしてる」ということばの都合のよさを知りつつも、それでも言わずにはいられない私たちの愚かさを意味しているのではないだろうか。
「あいしてる」
それはとても都合がよく、陳腐でありふれたことば。
それでも、私たちはその歌を聴いて、涙してしまうのだろう。
6. エンディング
まるで映画のエンドロールだったな
最後の君の笑顔は
ここでは、「ギラギラ」の少女が「あくる日」の少女のもとを去った場面が映し出される。
「ギラギラ」の少女の顔は映し出されないが、少女は、それは美しい笑顔だったのだろう。
最初のほうで「あいしてる」を「さよならみたいに云わないでよね」という歌詞があり、これは平等な愛だからこそ特別をつくらないからと解釈したが、もう一つ考えられることがある。
それは、「ギラギラ」の少女にとっての特別が、「その人」であるということだ。
「あくる日」の少女からみたその場面は、二人は幸せに暮らしましたとさ、という童話のエンディングのようにも見えたことだろう。
それでもぼくらはあいしてるあいしてるあいしてる
懲りずに飽きずに
Love Love Love
Love Love Love
あいしてる
ある種、「あいしてる」は、表現の抑圧であるともいえる。
てにをは氏は、Ado氏との会話の中で、あいしてるを連呼するこの曲を「狂気の沙汰」と表現していた。
実のところ、これはこの曲に限らず、私たちの日常にも言えることだろう。
多くの音楽や映画、小説といった物語は、「愛」を少なからず含んでいる。
そして、愛さえあれば大団円、といった具合に作られていることも多い。
これはキリスト教にもいえることで、キリスト教ではむしろ、愛がなければすべて無といった言葉すらある。
私たちの使う「あいしてる」はいろいろな感情を表しているものであり、異なる感情であれば違う言葉を使って表現すればいいはずだ。それこそ、歌であればいろんな言葉を用いて、己の感情を彩り豊かに歌い上げればいい。
それでも、そんな複雑な感情を「愛」という一言で片づけなければならない風潮は、表現する機会を奪っているともいえるだろう。
そんな中で、「あいしてる」を何度も繰り返し歌うこの「永遠のあくる日」。
様々な感情を「あいしてる」という言葉だけで片づけてしまった、皮肉的な要素を感じるのは、私だけだろうか?
7. 永遠のあくる日
この動画の左右には、パーフォレーションと呼ばれる、映画のフィルムの穴が演出として描かれている。
そしてそのパーフォレーションは、まるでエンドロールのようだった「ギラギラ」の少女が去った「あくる日」の少女の視点から、徐々にフェードアウトしていく。
そして、槍によって自由を奪われた少女は、かつての「ギラギラ」の少女を見つめるように、遠い目をしている映像でこの曲は終わる。
まるで、映画のような愛は、彼女の現実にはなく、彼女の思い出の中で笑う少女だけだとでもいうように。
この動画では、古い映画のようにところどころに赤い光が混じっている。
これは、フィルムが劣化したことによっておこる現象だ。
そう、彼女の、映画のような、永遠とも思えた愛はすでに過ぎ去り、その思い出は劣化の一途をたどっているのだ。
この曲は「あいしてる」をひたすら繰り返す、とても古典的でシンプルな曲。
けれども、同じ「あいしてる」であっても、この曲をそのまま聞いたとき、ギラギラのアンサーソングとして聞いたとき、そしてこの考察・解釈を見てから聞いたとき、
きっと、「あいしてる」にはそれぞれ異なる趣が宿っていることだろう。
8. おわりに
ということで、「永遠のあくる日」考察・解釈でした。
楽しんでいただけたでしょうか?
実は、考察の中に出てきたジャン=オノレ・フラゴナールの「The swing (ブランコ)」、「アナと雪の女王」にも出てきているんです。
アナ雪といえば、男女の愛ではなく、姉妹愛を中心に描かれた作品。
そして本作も、どちらかといえば姉妹愛にも近いのかもしれません。
けれども、「あくる日」の少女が抱いていた愛が、どのようなものなのか、私たちは想像するしかできません。
愛は、本当にいろんな形をもった、生き物のようなものですから。
「ギラギラ」の考察はこちら↓↓↓