『アランダーノ』を自分勝手に解釈してみた

 

き、き、き、

きた~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!

 

 


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紗痲シリーズの新作、とうとう登場です...!

シリーズ最終曲か...寂しいけど嬉しいなあ~とか思ってたらスピンオフですよ。

嬉しい予想外!

しかも私の好きなGui!!

しかもしかも幼少時代?!

もう考察するしかないやんけ。

というわけで今回は煮ル果実氏の『アランダーノ(Arandano)』を考察・解釈していきたいと思います。

 

 

今回の作品の中心となるGuiは前作『キルマー』に出てきました。

よかったら過去記事を読んでネ↓↓↓

episode0: キルマー

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同シリーズの曲↓↓↓

episode1: 紗痲

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以下、歌詞はアランダーノ(Arandano, 作詞作曲 煮ル果実様)より引用しています。

 

 

1. 登場人物

主な登場人物は以下の二人。

 

Gui Oakes(ガイ・オークス)

Hale Albee(ヘイル・オールビー)

 

「Gui」 は、フランス語でヤドリギの意味を持つ。

ヤドリギ(宿り木)という名のとおり他の木に寄生する植物で、丸い球状の形で寄生した木の枝にぶら下がり、Guiの瞳と同じ黄色い花を咲かせる。

タイトル画面でGuiが丸に囲まれたり、映像のテーマ色が黄色なのはこの辺からきているのだろう。

ちなみに、ヨーロッパでは神聖な木とされており、古代ケルト族の間では、特にオーク(oak)に宿るものが最も神聖視された。

 

一方、「Hale」とは、「元気な」「健康で強い」といった意味で、もともとの語源は「完全、傷のない(whole)」という語からきている。

これは、Haleの立ち位置そのものを示しているのだろう。

Haleが最初に登場するシーンでは、背後の窓枠のデザインがおうし座マークのような形をしている。

おうし座は全知全能の神ゼウス(ギリシャ神話)が化けたものであり、Haleがゼウスのように優秀で、施設のリーダー格として振舞っていることを暗示しているといえる。

 

そして、おうし座は、Guiのモデルでもあるオリオン座(過去記事参照)と対面するように並ぶ星座だ。

これはこの作品が、GuiとHaleという二人の対峙を描いた物語であることを示していると思われる。

(※ちなみに、少々強引かもしれないが、窓枠のおうし座マークのようなデザインの下には、しっぽのないさそり座マークのようなデザインもある。)

 

2. 物語の設定

イントロの映像は、映画のように枠が小さくつくられている。

これは、この映像がGui自身の記憶ではなく、第三者からみた情景(設定)を物語っているためだろう。

 

ここでは、煙の上がる街の中、悲壮な表情のシスターらが赤ん坊を裕福な夫婦に預けるというシーンが描かれている。

おそらく、戦争孤児となった赤ん坊をシスターらが引き取り、キリスト教と縁のある裕福な家庭や孤児院に預けている場面と推測できる。

ここで預けられた赤ん坊は、黒髪であることからこの作品の中心人物である、Gui。

また、この時、Guiを預かった夫婦の奥さんはすでに妊娠している。

 

3. HaleとGuiの関係

箱庭に立ち込める焦燥と
the miniascape filled by irritation
むせ返る弱者の咆哮
choking roars from the underdog
放埓な生活 戯れるも騙るも嘲るも
fast life, you can play or cheat or mock
準 自由 故に
because it’s all quasi-free

ここからは、Guiの幼少期の話。

youtubeのコメントの中にもあった考察だが、外側が黒く靄のようになっていることから、これはキルマーで死ぬ前の、Guiの走馬灯なのかもしれない。

 

箱庭というのは小さな箱の中に家や自然を模したものである。

そして、ここでいう箱庭は、孤児院のなかの小さな世界のことだ。

 

この場面では、大きな食卓に子どもたちが並び食事をとるシーンが映し出されている。

夜(最初に月が出ている様子から)にも関わらず火の灯っていないろうそく。

無作法に食べ物を口に運ぶ子どもたち。

息苦しくなるほど(むせ返るほど)響き、立ち込める動物のような(弱い者であるこどもたちの)声。

 

この光景や歌詞から察するに、孤児院の生活はほとんど放置された状態だったのだろう。

作品中、映像で出てくる大人はメイドだけであり、だれも教育に関わっていないことが容易にわかる。

そのような生活の中では、遊ぶこと、騙すこと、人を馬鹿にすること、すべてが自由で抑制するものがなく、何かの基準やルール(準)すら無いも同然(放埓)なのだろう。

「鳴き声」という表現からもわかるとおり、なんの仕切りもない動物園のような状態だったのだと予想される。

 

「礼節」の文字を落丁したまま育つ
the word "courtesy” is not in his dictionary
法と童の牢獄 統馭(とうぎょ)と洗礼
the law and the prison of children, control and baptism
鈍く濁る瞳面(レンズ)に臆病が映る
see cowardice reflected in the muddy eyes

そのような生活を続ければ、礼儀や節度(礼節)を失った人間に育っていくのは想像に容易い。

特に、この作品でそのように育ったのは誰か?

英語版の歌詞では、「彼の辞書に『礼節』という文字はない」となっている。

そう、この「彼」とは、Haleのことだ。

 

「法と童の牢獄」

ここは、大人に放置され、けれども逃げ出すこともできない、子どもたちのルールで統治された子どもたちの牢獄だといえるだろう。

子どもたちが並び、その足が均等に並ぶ映像は、まるで檻のようである。

そこで幼いGuiを待ち受けているのは、支配(統馭)と洗礼ともいえる暴力。

踏みつけられ、泥が混じった涙の浮かぶ瞳には、逆らえずになすがままにされている状態が映っている。

 

名誉 才能に魅せられ焦がれたとして
even if you've been attracted by talent and honor, and longed for them
妥協 癖に 怜悧(れいり)極めねば 一生隷僕者
always compromise and never trying to be smart, you’re doomed to be a slave

ここでいう「名誉」は、おそらく、この孤児院を経営する夫婦からの愛なのだろう。

そして「才能」は、成績などの優秀さなども含まれているのかもしれないが、ここではどちらかというと「愛される才能」なのだと感じる。

現状、この愛を一身に受けているのはHaleであり、そのため彼は誰に対しても無情で強気にいられるのだろう。

そのような彼の「愛される」という立場を羨んだとしても、誰もがその立場になれるわけではない。

ここの歌詞では、「現在の状況に妥協するような臆病者で、現状を打破する策を持たないような賢くも利口でもない人間は、一生奴隷として生きるしかないのだ」と言っているのだ。

 

『果つまでずっと遊び尽くしてよう』    
“keep playing all the way to the end”
悪辣舞ったslogan              
how a vicious slogan
這い蹲って涙を呑んでも
even if I grovel and swallow my tears
叶わず戦々恐々
it never ends, and stays here with the terror

 

『果つまでずっと遊びつくしてよう』

Haleのこの言葉とともに、映像に映っていた少年は階段から突き落とされる。

 

スローガンとは、ある集団や団体の目標であったりモットーを指し示すもの。

悪辣とは、目的達成のためにはひどいことも平気でするような性質を指し示す。

 

後半で考察するが、Haleはおそらく、自身の目的を達成するため、他の子どもを排除する「残酷で暴力的な遊び」を行っているのだ。

たとえ、悔しさや悲しさをぐっと我慢して飲み込んだところで、「果てるまで」の言葉通り、死ぬまでその恐怖の遊びが終わることはない。

そしてGuiもまた、Haleのこの「残酷で暴力的な遊び」の標的となったのだろう。

 

暴かれたって無意味だろうって
people say “it doesn't mean anything even if it's exposed”
脳を洗われた共犯者
like brainwashed accomplices
救いの手 声 震えたまま
seeking helping hands, the voice still trembling
愛は消え去って帳が落ちた
love is gone and the shades of night already fallen

 

その理不尽な遊びに耐えられなくなったGuiは、Haleがわざと少年を階段から突き落としたことを屋敷のメイドに話し、訴えかける。

おそらく、メイドはこの施設にいる数少ない大人なのだろう。

また、曲の後半では、唇を切ったGuiをメイドが心配する様子が描かれており、Guiにとっては唯一心を許しかけていた人物だったこともうかがえる。

 

しかし、そのメイドですらもHaleに逆らうようなことはできず、Guiを払いのける。

子どもたちも、大人であるメイドも、Haleの統治するこの箱庭の世界を変えることなどできないと洗脳されたように思い込んでいるのだ。

 

「帳が落ちる」

帳とは、内と外を隔てる布の隔たりのこと。そこから転じて、さえぎって見えないようにするものをいう。

たとえば、しばしば使われる「夜の帳が下りる」とは、闇により外界と遮られた状態のこと。

つまり、闇に包まれ、ひとりぼっちの状態である。

Guiは、唯一の希望で、愛を受け渡してくれると期待していた大人(メイド)に救いの手を求めた。しかしそれは振り払われ、希望は絶望へと変わった。

Guiの世界は彼以外のだれも見えない、闇に覆われたのだ。

 

どうせ灰になると思えば
if I work my fingers to the bone
荒唐無稽な結末も          
even the preposterous ending
変えられるだろうか
can be changed or not?

 

場面が切り替わり、一つのお墓が出てくる。

おそらく、階段から突き落とされた少年のものだろう。

ここでGuiは、「どうせすべてのものは死んで灰になると思えば、勇気を出してこのばかばかしい(洗脳されたような)状況を変えることができるだろうか」と考える。

 

滾る体温で厭悪を打てば
forged the hatred with the boiling body heat, and then
鋭利なる切っ先と相成った
became like a sharp edge of the sword
『先人のように飽かれ朽つるのを
せいぜい待っていろ』
“just wait for people to get bored of you,
and going to fall into decay like predecessors”

 

そして、Guiは、恐怖で自身の体温が沸き立つような感覚を覚えながらも、勇気を出してHaleに対する嫌悪を言葉にしたのだろう。

しかしながら、この憎しみの言葉への返答は、鋭くとがった(鋭利な)鋏の切っ先と一緒に返ってきた。

Haleは「過去のあいつのように飽きられ、死ぬのをせいぜい待ってろ」という言葉とともに鋏の切っ先をGuiの唇にあて、

 

"I'll add another wounds. "

『(唇に)もう一つ傷をつくってやるよ』

この言葉とともに、閉じた。

 

ここでいう「先人」とは、おそらく先ほどの場面で出てきた階段から突き落とされ、墓石の下に眠る人物だろう。

この少年は、Haleのおもちゃとして遊ばれ、「飽きられ、死んでしまった」のだ。

そしてHaleは、次のおもちゃとしてGuiを選んだのだろう。

 

”want to hurt me”

"me..."

『僕を傷つけたいの?』 『僕を...』

一方で、痛みに絶叫し、口を抑え込むGui。そして、彼はこの言葉を吐く。

ここで主語がないのは、二人のみの会話だからだと思われる。つまり、主語は、ここに対峙するHaleだ。

 

ただし、あくまで可能性だが、主語が大きく、言葉にするのも恐縮してしまう存在であることも考えられる。つまり、「God want to hurt me?」という運命に対する問いかけととれなくもない。

そうだとすると、キルマーでの彼の口癖「仕様がない」にもつながってくる。

つまり、「仕様がない」は、「運命だから仕様がない」というGuiの人生に対する諦めであるともとれるのだ。

 

『果つまでずっと遊び尽くしてよう』
“keep playing all the way to the end”
芽吹く未来のmurder
a sprouting future murder

『果つまでずっと遊び尽くしてよう』

Haleのモットーだったそれは、Guiの中に深く根付き、そして強奪者としての一面を芽吹かせた。

 

這い蹲って涙を呑んでも
even if I grovel and swallow my tears
誰も来ないと睥睨
told him “no one is coming”, and glaring into his face
慰めなんて端から無いでしょう
there was no comfort from the beginning, right?
自業自得の喘鳴
the wheezing caused by his own fault

 

「いくら我慢しようが、誰も迎えにはこない」とHaleはGuiを睨みつける(睥睨)。

まだ大人に対して希望を持っていたGuiに対し、大人が助けてくれるという慰めなど、大人から捨てられた僕らには最初からないだろう、とHaleは現実を突きつけた。

 

「自業自得の喘鳴」

喘鳴とは、呼吸するための気道が狭くなった時に「ヒューヒュー」「ゼーゼー」などのように聞こえる音のことである。

なぜ、気道が狭くなっているのか?なぜ「自業自得」なのか?

この答えは、「自分で自分の首を絞めているから」だ。

Guiはこれまでに、大人たちに愛を求めてきた。

しかし、そのような期待をすればするほど、裏切られた時の落胆は大きい。

どうせ裏切られるのに、愛を期待して落胆を大きくするということは、自分で自分の首を絞めるようなことだとHaleの言葉に気づかされたのだろう。

 

救いの手 暴 握ったまま
helping hands, “violence”, tightly clasped
寧は消え去って帳が上がる
peace is gone and the curtain is about to rise

いままで救いを求めて伸ばしてきた手。それを今はぎゅっと握りしめ、「暴力」という形に変えた。

Guiの世界は誰も手を伸ばしてはくれない、一人の世界だった。それが今、隔たりをなくし(帳は上がり)、他人とのつながりができた。

ずっと独りだった彼は、初めて他人とがいる世界へと足を踏み出したのだ。

それが、「暴力」という悲しい関わりであったとしても。

 

生涯最の底辺だって憂いたくなるよな
it’s sad to be at the bottom throughout life, right?
さんざお望み通り遊び尽くして
the boys had all the fun what they could ever want
業火と交わった少年
and mingled with hellfire

『生涯最の底辺だって憂いたくなるよな』

ここで、キルマーのサビの歌詞が歌われる(さすが煮る果実さん、最高じゃ~)。

大人に捨てられ、だれも助けてくれない人生。HaleもGuiも、立場が違うように見えて、同じ最底辺だということを、そしてそれをHale自身も頭の片隅では理解しているとい事実を、今度はGuiが突きつけたのだ。

 

先に述べたように、裕福な夫婦はGuiと思われる赤ん坊を受け入れる際、すでに妊娠していた。

つまり、自分らの子どもがいる。

もしこの子どもがHaleなのであれば、Haleが愛され、傍若無人にふるまってきた理由も納得である。

しかし、「名誉」の歌詞の部分で出てきた夫婦と子どもの肖像画は、Haleのようにも見えるが、髪型、髪色、服装が若干異なっている。

また、夫婦のこどもはGuiよりも年下であるはずだが、Haleの身長はGuiよりも大きい。

そして、「慰めなんて端からないでしょう」という場面では、GuiもHaleも他の子どもたちも、みな同じ立ち位置にいる。

 

これらを加味すると、仮説ではあるが、夫婦は子どもをすでに失っており、戦争孤児のなかでも自分らの子どもに似たHaleを可愛がっていたのではないだろうか。

 

もしこの仮説通りであれば、Haleの目的は「自身の愛される立場」を守ることであり、そのために競合相手となりうる他の子どもを排除していた可能性がある。

しかし、孤児院の様子からみるに、裕福な夫婦はすでに孤児たちに興味を失っている可能性が高い(Guiの見た親子の光景がこの夫婦だとすると、すでに別の子どもを迎えたのかもしれない)。

そうなれば、さらに「飽きられる」恐怖を覚えたHaleは自身の立場を守ろうと、より悪辣に行動を起こしていくことだろう。

一番最初の歌詞の「箱庭に立ち込める焦燥」。

この「焦燥」は、もしかすると、Haleの「自身の立場を失うのではないか」という「飽きられ、死んでしまう」かもしれないという焦りであり、Haleや肖像画の子どもと似た髪型をしたGuiを「自分の立場を脅かす人物」として恐れられていたのかもしれない。

 

そう考えると、この前の部分の「這い蹲って涙をのんでも 誰も来ない」「慰めなんて端からないでしょう」というセリフは、HaleからGuiに対する言葉だが、Hale自身に対する言葉でもあるともとれる。

最初のほうの「法と童の牢獄」という歌詞では、子どもたちの足が檻のようだと考察したが、そうだとすれば、牢獄に閉じ込められているのは紛れもなく中心にいるHaleなのだ。

 

そんなHaleに対し、「お前のお望み通り、遊びつくしてやろう」とGuiは不敵な笑みでそう持ち掛ける。

どんな遊びか?もちろん、Haleの始めた「残酷で暴力的な遊び」である。

 

「業火」とは、悪行によって身を滅ぼすことの例えであり、地獄で罪人が焼かれる炎の意味もある。

したがって、Guiは、ここから罪人の道を歩み始めたのだ。

 

もう喰われたって構いやしないだろう
dog-eat-dog, it's okay to be eaten now, right?

他愛も無いねagitator
such a trivial thing, huh? agitator

 

「dog eat dog」は「食うか食われるか」という慣用句で、たとえ同類であっても競争のために相手を蹴落とすといった意味がある。

「ここが食うか食われるかの世界なら、そろそろお前が食われる側になったってかまいやしないだろう?」ということだ。

ただ、この孤児院が動物園のようであったことなどを踏まえると、直訳でもいいのかもしれない。

つまり、「犬が犬を食うのなら、(お前も同じ立場=犬なのだから)お前が食われる側に回っても問題ないだろう?」ということである。

 

Agitatorとは、自分の思想や立場が有利になるように民衆を扇動して動かすリーダー的人物のことであり、ここではHaleのことを指す。

「お前を食う(負かす)ことなんてとるに足らない些末なことだよ(他愛ない)、リーダーさん?」と言っているのだ。

 

呆れるほど重ねた罪
staggeringly many piled up sins
飼い慣らせずに 御覧の有り様
couldn't handle them, and being like this

そうして、制御できない嗜虐性を抱えたまま、少年は大人になった。

ここでは、キルマーに出てくるRon (ロン)、Livara(リヴァラ)、Armis(アルミス)、の過去映像もほんの少しだけ流れ、彼らもまた、心に傷を抱えていることが明らかとなっている。

そんな彼らを引き連れ、Guiはならず者たちの頭領となる。

そして、一瞬だけ映る女性、Kalmia(カルミア)。彼女との物語であるキルマーに続くのだ。

 

さあ 遊び疲れた果てはどうだい
so, how do “you” feel about the end of “your” play?
奪い去られ嗤われた命に
and how many lives have been sacrificed and laughed at
相応しい縁故と末路を
let’s get the ending “you” deserve

ここでは、大人になったHaleとGuiが子どものときと同様に対峙する。

ならず者となったGuiに対し、Haleは軍服を着ていることから軍隊へと入ったようだ。

 

ここの英語版を見てみると、「you」が強調されていることが分かる。

ということはGuiからHaleへの言葉であり、「お前が始めた遊びが終わりを迎えることをどう感じる?」と言っているのだ。

 

HaleもGuiも、ここに来るまでに「果つまでずっと遊び尽くしてよう」をモットーに、「残酷で暴力的な遊び」を続けてきた。

おそらく、Haleは戦争の英雄として。Guiは強奪者として。

法の下か外かの違いはあれど、多くの命を奪い、笑ってきた。

 

そのように暴力でしか他人と関われない彼らは、どのような縁を紡ぎ、そして死んだのだろうか。

 

 

4. 動物園物語

さて、別の側面からこの物語を解釈してみよう。

この曲をより深く理解するうえで忘れてはいけないのが、「Hale」のファミリーネームである「Albee」だ。

Guiの「Oaks」とは違い、Albeeは何かの単語ではなく、多くは人名である。

そして、この名前でよく知られている人物として挙げられるのが、エドワード・オールビー(Edward Albee, 1928-2016)というアメリカの劇作家だ。

彼のデビュー作である「動物園物語」は、はっきり言って最高傑作であり、そしてこの「アランダーノ」を解釈するうえで非常に重要だといえる。

そこでこの作品について、少々考察したい。

 

【動物園物語の概要】

「動物園に行ってきたんです」。夏のある日曜日の昼下がり、いつものように公園のベンチで本を読んでいたピーターは、そう声を掛けられた。話しかけてきたのは、かつては美丈夫であっただろう30代後半の男、ジェリー。彼は当惑するピーターに次々と質問を投げかけ、ピーターは順風満帆な自分の家庭や仕事について仕方なしに答えていった。そんなやりとりが続いた後、今度はジェリーが自身について話し始めた。その話の中心は、住んでいる安アパートの犬の話。ジェリーと犬の話が終わり、いたたまれないピーターは会話を切り上げようとする。しかしジェリーはそれを許さず、さらにピーターの座っているベンチの場所を強引に奪おうとする。思わず激昂し、ジェリーに喧嘩を売るピーター。それに対し、ジェリーは一丁のナイフを取り出したかと思うと、それをピーターの足元に放り投げた。そして、ナイフを拾って自分と戦え、とピーターに言うのだ。ジェリーは、拒否するピーターに対し、屈辱的な言動と態度で彼に迫る。ピーターはとうとう激怒して足元のナイフを拾い、あくまでも防御的な持ち方だったが、それをジェリーへと向けた。すると、ジェリーはそのナイフめがけて突進し、自分の身にナイフを刺した。そして、驚き茫然とするピーターに、ジェリーは感謝を述べた

 

正直この内容だけではまったく意味が分からないと思う。

特に意味が分からないのが、いきなり見知らぬピーターに話しかけて自分を殺させたジェリーだろう。

しかし、このジェリーの心情・行動こそ、まさしく「アランダーノ」の本質に迫るものだ。

この物語は短いものの考察しがいのある作品で、全てを読み解いていくとすごい文章量になってしまうので、赤色のキーワード部分をなるべく端的に考察したいと思う。

 

まずジェリーに関する私の解釈は以下の通り。

① 人と交流したくてもうまくコミュニケーションできないジェリー。彼は、犬との交流を通して、傷つけることこそ真のコミュニケーションであり、愛だと感じた。

② そして、一見恵まれているように見えるが、自分と同じように他人と真のコミュニケーションをとれない人間であるピーターを相手に選んだ。

③ ジェリーは、彼を激怒させ、自身を傷つけさせることで、はじめて人とコミュニケーションをすることができたのだ。

 

① 住んでいる安アパートの犬の話

アパートの管理人が飼っている犬で、ジェリーか玄関に入ると唸り声をあげてとびかかってくるほど彼に対して凶暴だった。

ジェリーはその犬を手懐けようとするも失敗し、最終的に犬を毒殺しようとする。

その計画は、結果的には失敗したものの、ジェリーと犬の関係は「互いに無関心を装う」というものへと変化した。

この経験を通し、ジェリーは自身が犬を愛していること、そして犬に自分を理解してほしいと期待していたことに気が付いた。

人間はなんらかの方法で何かとかかわりを持つことが必要だ。(「動物園物語」より引用)

人にも動物にも関心を持たれない孤独なジェリーにとって、犬との関係は求めていたコミュニケーションだった。

犬とぼくとは妥協をしただけだ、ただの取引さ。僕らは愛しもせず、傷つけもせず、互いに相手の心にふれようとはしない。(略)ことによると、あの犬がぼくにかみつこうとした行為こそ、愛の行為だったんじゃなかろうか。(「動物園物語」より引用)

そして、犬との闘いの中で勝ち得た「無関心という妥協の関係」よりも、自分の感情をむき出しにし、傷つけあおうとした犬との闘いこそ、本当の愛の行為であったと感じたのだ。

 

 

② いたたまれないピーター

ジェリーと犬の話を聞き、ピーターは落ち着きを失う。

それはなぜか?

おそらく、ピーターはジェリーの心情を理解できてしまったのだ。

 

ピーターは安定した高給の職につき、妻と二人の子ども(娘二人)がいるうえ、猫やインコといったペットのいる家で暮らしている。

一見すると理想的で恵まれた生活を送っており、両親や恋人はおらず安アパートで暮らすジェリーとは正反対の人物だ。

しかしジェリーとの会話の中で、本当は息子が欲しかったことや犬を飼いたかったことを話しており、それを「ままにならぬは浮世の習い(人生は思い通りにならない)」とジェリーにからかわれて怒っている。

つまり、自分の要望ではなく他人の要望に従い、妥協した関係の中で生きてきたのだ。

出発点として……理解をし、理解をしてもらえそうな相手……(ジェリーのセリフ「動物園物語)より引用)

ジェリーから見れば、このような妥協した関係しか築けないピーターは、真のコミュニケーションができない自分と同じでである。

だからこそ、ジェリーはピーターを選んだのだ。

 

③ ピーターに自分を殺させたジェリー

こう考えてみると、ジェリーの行動が少しは理解できるのではないだろうか。

ジェリーは、彼にとって「真のコミュニケーション」で「愛」だった犬との闘いを、今度はピーターと行おうとしたのだ。

彼を激怒させ、彼に殺されること。

それこそまさに、彼にとって初めて人の心にふれ、自分の心にふれられた瞬間だった。

 

 

5. GuiはHaleを傷つけたのか?

この動物園物語における「傷つけることこそ、真のコミュニケーションであり、愛の行為」という考え。

これは、愛に飢えながらもヒトとのコミュニケーションができずにいたジェリーのなかで生まれてしまった結論だ。

 

ここで曲の舞台に戻ろう。

この物語の舞台は、戦争が起きていた時代の孤児院である。

1990年代のイギリスの研究では、孤児院で育った子どもたちは、発達の遅延やコミュニケーション障害を持つ確率が高いことが報告されている。

これは、幼少期の大人からの声掛けや接触といった交流が少ないことが原因の一つとされている。

特にコミュニケーション障害は、成長してからも回復が難しいことも多いらしい。

 

HaleとGuiのいた孤児院では、特に大人の介入が少なく、子どもたちはコミュニケーションを学ぶ機会が乏しかったといえる。

そして、二人とも愛に飢えていた。

HaleとGuiはいじめっ子といじめられっ子という大局的な立ち位置だが、二人とも、ジェリーと同じく愛に飢え、けれどもコミュニケーションをとる術を学ぶことのできない動物園の中にいたのだ。

 

そして、二人とも同じ境遇であり、後半では「生涯最の底辺だって憂いたくなるよな」と互いの心情を理解できていることも描かれている。

つまり、ジェリーにとっての犬やピーターと同じように、理解し合える相手だといえる。

 

さらに、曲の最後でGuiがHaleにとびかかった場面。

これは、まさしく犬がジェリーに噛みつかんとする行為であり、ジェリーの言葉でいえば愛の行為だといえるだろう。

Haleがジェリーと同じように「傷つけることこそ、真のコミュニケーションであり、愛の行為」だと感じていたかどうかはわからない。

けれども、Haleにとって、この場面は今まで一方通行だった暴力という行為が同じ暴力として返ってきた、初めてコミュニケーションが叶う瞬間であり、愛を受け取れる瞬間だったのかもしれない。

 

では、この場面で、GuiはHaleを攻撃したのだろうか?

個人的な答えとしては、否だ。

まず、GuiがHaleを傷つける場面が映像にない。

それに、大人Haleの見た目にも目立つ傷を負っていないことがわかる。

これは私の解釈だが、Guiは、わざとHaleを傷つけなかったのではないだろうか?

 

それを支持するのが、大人になった二人が対峙するシーン。

彼らが対峙した際に何をするかといえば、ただすれ違うだけなのである。

もちろん、二人が違う道(人生)を行く、という対立的な描写ともとれる。

しかし一方で、毒殺騒動後に成立したジェリーと犬の「無関心を装う」関係と同じ、妥協した関係となってしまったともとれる。

つまり、HaleとGuiの間に、傷をつけられることで成立する初めての人とのコミュニケーションは成立せず、二人の関係は妥協したものへと変わってしまったのだ。

 

その原因を妄想するのなら、やはり、「GuiがHaleを傷つけなかった」からだろう。

傷をつけられる立場にいながら傷をつけない。

いうなれば、「お前とはコミュニケーションをしてやらない」ということだ。

 

ここの歌詞の「他愛ない」は「とるに足らない些末なこと」という意味だが、この「他愛」という漢字は当て字である。

そして「他愛」とは、文字通り他人を愛すること。

したがって、「そこに愛はない」のである。

 

 

6. アランダーノ

タイトルの「アランダーノ」は、スペイン語でクランベリーなどのツツジ科スノキ属の植物を指す言葉だ。

 

「クランベリー」と言われ、ハッとする人も多いだろう。そう、前作キルマーでは、歌詞の一つに「クランベリーに溺れる」という表現が使われていた。

この「クランベリーに溺れる」の意味合いとしては、①クランベリーの花言葉である「心痛を慰める」という部分からkalmiaがトラウマである姉のことを思い出しているというものと、②クランベリーのような髪色のkalmiaにGuiが惚れ込んでしまうというようなものが考えられた。

 

そして、ここでも、「アランダーノ(クランベリー)」は、「ン」の部分がGuiの唇の傷(心痛エピソード)にかかっていることや、文字がkalmiaのモデルでもあるサソリのような形状をしていることなどから、①心痛を慰める、②kalmiaの2つのことを指しているととれる。

 

① Guiの心痛とは

では、ここでいうGuiの心痛とはなんだろうか?

Haleによるいじめや唇の傷も、精神的にかなり苦しかったことだろう。

しかし、Guiがもっとも絶望したのは、おそらく、メイドに手を振り払われた時ではないだろうか。

 

最初にも述べたが、Guiという名前は「ヤドリギ」を意味する。

ヤドリギには、この木の下でキスをするとヤドリギの祝福を受けて永遠に結ばれるという伝説があり、彼の「愛」を求める子どものような心を暗に示しているのだろう。

大人に捨てられても愛を受け取ることを夢見ていたGuiにとって、唯一優しくしてくれるメイドは最後の希望だったはずである。

そして、その最後の希望はあっけなく断たれた。

それでも、Livara(リヴァラ)やArmis(アルミス)、Kalmia(カルミア)の髪型がメイドと同じ三つ編みだったことを考えると、救いの手という愛を求める心は彼の中に残っていたのかもしれない。

だからこそ、彼は最後のシーンで、救いの手の象徴である三つ編みを追いかけたのだろう。

 

②Kalmia

キルマーとアランダーノ、この二つの作品を通して私は思った。

Guiは、まさしくジェリーだと。

 

この物語で彼は、「果つまでずっと遊び尽くしてよう」のモットーを自身にも根付かせた。

キルマーでのその遊び相手は誰だったのか?

間違いなく、Kalmiaである。

 

彼は、「そこに愛はない」といって、Kalmiaを連れてくる。

ジェリーがピーターにとって大事な居場所だったベンチを奪った時のように、Kalmiaの居場所を奪ったのだ。

そして、「熱が潰えるまで仕様がないから観ててやる」、つまり「命果てるまで傷つけてやる」と、Haleに言われた時のように、今度はGuiが言ったのだ。

 

その後何が起こったか?

『生涯最の底辺だって憂いたくなるよな』

そう、キルマーの最後で、KalmiaがGuiにそう言うのだ。

GuiがHaleを理解し、彼に向かって言ったように。

ここで、KalmiaはGuiの理解者となった。

 

アランダーノでGuiがHaleにとびかかった時、おそらく彼はHaleを傷つけなかった。

では、キルマーではどうか。

ご存じの通り、KalmiaはGuiに刃を立てた。

つまり、GuiとHaleでは成しえなかった愛の行為を受け取るというコミュニケーションが成り立ったのだ。

ジェリーがピーターの持つナイフに刺された時と同じように。

 

 

したがって、①心痛を慰める、②Kalemiaという2つの意味を持つ「アランダーノ」は、この曲の一番最後の歌詞「ふさわしい縁故と末路を」をそのまま表現しているといえる。

彼の「愛を求めても誰も与えてくれない」という心痛は、「傷つける」という彼にとっての愛の行為をKalmiaが与えてくれたことで、慰められたのだ。

Kalmiaはここで彼に、「愛はない」という。

けれども、まさしくGuiにとって、Kalmiaは愛をくれた。

とても悲しい、けれども、彼にとっては幸せな、ふさわしい最後だろう。

 

 

 

以上、「アランダーノ」の考察・解釈でしたが、いかがだったでしょうか。

またもや長くなってしまったのですが、読んで楽しんでいただけたのなら幸いです。

ご意見・ご感想などあれば、ぜひくださいね!

 

 

 

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