『死神』を自分勝手に解釈してみた

 

今回考察・解釈する曲はこちら↓↓↓


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米津玄師氏の「死神」です。

22時13分というタロットカードの死神(22枚中の13枚目)にちなんで公開されたこのMV。

落語が舞台の物語調に、米津玄師氏の細やかで美しい所作、見る人をハラハラさせる結末まで本当に質が高く、3時間立たずで100万回再生を超えるトレンドとなりました。

 

とんでもなく完成度の高いこの作品に魅了され、「死神」という物語に興味を持った方も多いのではないでしょうか。

私もまさにその一人。

そこで、ここでは「死神」という物語の観点から、この曲について考察してみたいと思います。

よければ、皆さんのご意見もお聞かせくださいね。

 

 

 

 

以下、歌詞は「死神(米津玄師)」様と歌詞リリ様を参考にしております。

 

1. 死神という物語

映像からもわかる通り、この曲は落語が舞台である。

その演目は、「死神」。

落語のほうもとても素晴らしいので、ぜひお時間のある方は落語のほうの「死神」を見てみるといいかもしれない。

 

私のおすすめは三遊亭圓生氏の「死神」↓↓


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話を要約すると、以下の通りだ(知っている人は飛ばしてOK!)。

 

主人公は、失敗ばかりで金もない男。

このうだつの上がらない男が自殺しようとしたところ、死神と名乗るおじいさんが突然現れた。死神は男に、「アジャラカモクレン テケレッツのパー」の呪文を教え、これを使って儲けろと諭す。この呪文は死神を引き揚げさせる効果があり、呪文を唱えることで病人を助ける医者になればいいというのだ。ただし、病人の足元に死神がいる場合のみこの呪文の効果は発揮され、死神が枕元にいる場合は発揮されないらしい。

男はこの呪文を使い、医者として金持ちになった。しかし、調子に乗った男は散財し、お金を使い果たしてしまう。男は再び呪文を使って儲けようとするが、枕元に死神がいて呪文が効かない患者ばかり。そのようなことが続き、男が困り切っていたころ、ある商家から声がかかる。男が期待して病人の主人を見れば、やはりここでも枕元に死神。男は諦めろと家の者を諭すが、なんとその人物は、少しでも延命できれば巨額の報酬を支払うと言ってきた。金に目が眩んだ男は、一計を案じる。男手を集めると、布団の端に待機させ、死神の気が緩んだすきに布団をくるりと回転&呪文を唱えたのだ。この作戦は成功し、主人はみるみる回復する。

一方で、これに激怒したのは、呪文を教えてくれた死神だ。死神は男を連れて、たくさんのろうそくが灯された洞窟へと入っていく。死神が言うことには、これらのろうそくはすべて人の命の灯(寿命)であるらしい。そして、その中の今にも消えそうなろうそくが、この男のものだと言う。助からないはずだった商家の主人を助けてしまったため、そうなってしまったのだ。男は助けてくれと懇願した。すると死神は、これに火を継ぐことができれば助かると、新しいろうそくを取り出した。男はそれを受け取り、火を継ごうとする。しかし、焦りからか手が震え、なかなかうまくできない。そうこうしているうちに、火は小さくなり、「ああ、消える・・・」という男の最後の言葉とともに、男の命も消えた。

 

なお、この話のオチ(落語ではサゲ)には、男が火を継ぐことに成功して生き残るなど、いくつかのパターンが存在する。

 

2. 歌詞の現代語訳

 

この話を踏まえて、歌詞をわかりやすく意訳すると、以下のようになる。

 

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死のうとする男が死神と出会い、死神を消す呪文を教えてもらう場面。

後半の歌詞は、今の世界に生きる場所がないと言う男に対し、死んだ世界にもお前の居場所はないと言う死神の対比ともとれる。

 

 

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死神が卑怯な手を使った男に怒り、洞窟へと連れていく場面。

お金(医者としての報酬)に目が眩んで死神を騙してしまった男。死神は怒り、男を命のろうそくの洞窟へと連れていく。自身の寿命がほとんどないことを伝えられた男は、助けてくれと懇願する。そんな男に対し、死神は火を継ぐことができれば命は助かると言って新しいろうそくを男に渡すが、男は焦り、うまく火を継ぐことができずに終わってしまう。

 

 

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男に対する死神の心情が描かれた場面。

また、死神は男の苦しむ様を楽しんでいる様子もうかがえる。

そして、男の最終的な結末は、死神への仲間入りだということもここで明かされる。

 

 

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「死神」歌詞現代語解釈(musubiki)

男が死神に懇願する場面。

男は言い訳をあーだこーだというが、最終的に、ろうそくの火は消える。

 

3. 男は複数いる?

男が死神に言い訳する場面では、

 

・混乱して金に目が眩んだ(ちょっとした出来心)

・罪を犯すのは人の常(自身の罪はたいしたことではない)

・お前(死神)が誑かした(お前が悪い)

・妻子もいるんだから許してくれ(同情を誘う)

 

といったものが挙げられる。

このように、いろいろな観点から言い訳は、男が焦って混乱している様子を示している。男の表情はまさに、「飛んで滑って泣いて喚いた」のようにころころと変わっていたことだろう。

一方で、気になるのは、この言い訳をする場面が一番と二番で分かれている点だ。

 

「物語」というものは、基本、起承転結でできている。

この話は、呪文を教わる(起)、お金持ちになる(承)、死神を騙す(転)、自身の命の火が消える(結)といった構成でできているが、この曲では一番で(結)までの話がすでに描かれ、二番で再び(結)の話が描かれている。

ここから推測できることは、以下の4点だ。

 

① サビに(結)を持っていきたい

② 一度目は許されている

③ 二番では死神の心理描写を加え、物語の裏話を描いている

④ 二番は他の男たちの話

 

① サビに(結)

曲には「サビ」がある。

その一番盛り上がるサビに、一番のオチ(サゲ)である洞窟のシーンを持ってきた、というのは考えられる話だろう。

 

② 一度目は許されている

実は、落語「死神」のもととなった話は、グリム童話「死神の名付け親」というものである(オペラ「クリスピーノと死神」との関連も示唆されているが、ここでは割愛)。

この童話では、男の名づけ親である死神は、卑怯な手を使った男を一度だけ許している(二度許したという訳もある)。しかしながら、童話の男は再び卑怯な手を使い、最後には落語「死神」と同じような結末を迎える。

もしかすると、この曲の一番でも同様に、男は死神に許してもらったのかもしれない。

そして二番では、愚かにも同じ罪を繰り返し、自身のろうそくの火を消してしまったのかもしれない。

 

③ 裏話

死神はまるで善意で男を助けているように見えるが、二番で判明することは、死神が死を前に焦る男を見て楽しんでいるという点だ。

これは、上で紹介した三遊亭圓生氏の「死神」でも表現されているのだが、呪文を教えるこの死神、男がろうそくに火を継ごうとするも焦ってうまくできない様を見ているときが一番生き生きとしている。

つまり、一番では死神の善意のように見えた話(一番:男側の視点)も、裏を返すと男を苦しめるという死神の娯楽(二番:死神側の視点)でしかなかったというわけだ。

 

④ 別の男の話

最後に可能性として挙げておきたいのが、二番はまた別の男(たち)の話である、というものだ。

男がする言い訳には上記のとおりいくつかあり、なんとか助かろうと様々な言い訳をしているととれる。

一方で、あまりにも異なる言い分は、複数な男たちがそれぞれ言い訳をしているともとれるのだ。

そこで鍵となるのが、「死神」という落語にはオチ(サゲ)が複数あること

もしかすると、この言い訳の場面は、複数の男、つまり複数のサゲのパターンを示しているのかもしれない。

この点については、次で詳しく述べたい。

 

 

4. サゲのパターンと歌詞表現

 

上で述べた通り、落語「死神」のサゲにはいくつかのパターンがある。

実は、この曲では、その中の少なくとも以下の3つを組み込んでいるのではないかと思われる。

 

つめは、上記の通り、火を継ぐことができないパターン。

「ああ火が消える ああ面白くなるところだったのに」という歌詞は、「ああ、命のろうそくの火が消えてしまう、これから大金持ちになって人生面白くなるところだったのに」という意味になるだろう。

 

つめは、火を継ぐことに成功したパターン。

「面白くなるところだったのに」は、「面、面白く、面、面白く、なるところだったのに」と歌われている点に掛かっていると思われる。

「面」とは顔、表情を意味する言葉だ。たとえば、泣きっ面や仮面などの言葉は、「面」の顔という意味を使っている。

このように考えると、「面、面白く」なら「表情が面白い」こと、「面、白く」なら「顔が白くなる」ことだと捉えることができる。

つまり、「せっかく(男が苦しみ、苦悶の表情が多様に変わり、最終的には白くなって)死ぬところだったのに」と死神が愚痴る、成功パターンを表しているともとれる。

 

そして、つめのパターンはこれ(動画を見なくても次に説明するよ)。

 


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立川談志氏が演じた、火を継ぐことに成功しても死神が吹き消してしまうというなんとも無情なサゲである。

このサゲ自体は、曲の映像の最後に登場した死神米津によって火が吹き消されることからも物語の軸だということがわかるが、この場面を表現する歌詞もある。

それが、「香り立つ おしまいのフレグランス」だ。

 

ろうそくの火を吹き消すと、煙とともに独特の匂いがする。

ろうそくは蝋のパラフィンが気化したものが燃焼するという仕組みなのだが、息を吹きかけたりなどして火を消すと、燃焼せずに残った気化パラフィンが煙や匂いとなって現れる。

つまり、この「香り立つフレグランス」というのは、まさしく火が途中で消えた証なのである。

 

ちなみに、落語「死神」では、最後の言葉を「ああ、消えた…」から「ああ、消える…」にアレンジしたという経緯がある。

これは、火が消えて死ぬのであれば、「消えた」場面は見ることができないため、「消えた」とは言えないだろうという考えからきている。

「おしまいのフレグランス」もまた、死んでしまっては嗅ぐことのできない香りのはずだ。

したがって、「おしまいのフレグランスが香り立つ」と思っているのは、死神なのである。

「フレグランス」というのは、そもそも心地よい香りに対して使われるもの。

そして、「香り立つ」というのも、よい香りがふわりと広がることを意味する。

これらの点を踏まえれば、男の火が消えたことに対して、死神がどう思っているかは感じ取ることができるだろう。

 

 

5. もうひとつのサゲ

さて、この曲には男(サゲ)が複数いるという仮説を立てたわけが、もう一つ、複数いる存在を忘れてはいけない。

それが、死神だ。

もともとこの物語では、呪文を教えた死神のほかに、病人のそばにいる死神が存在する。

曲の映像では客席にいる米津氏がおそらく病人のそばにいる死神たちだろう。

舞台の男役の米津氏が呪文を唱えて手を叩くと、この客席の死神米津が去っていく、という描写がなされている。

ここで注目すべきは、曲の映像の中で、男役も、客席の死神役も、最後に火を吹き消す死神役も、すべて米津玄師氏が演じているという点である。

 

そのキーとなるのが、最後に紹介するつめのサゲ。

死んだ男が死神になるパターンだ。

このパターンでは、死んだ男が死神となって別の男に儲け話をもっていく、というオチが話の最初につながる構成となっている(まわりオチと呼ばれる)。

 

実は、男が失敗して死んでしまう三遊亭圓生氏の「死神」でも、このサゲを暗示している部分がある。

この「死神」では、話の最初に出てくる呪文を教えてくれる死神の説明として、「鼠色の着物の前ははだけ…」という言葉が使われている。この鼠色の着物、先ほどまで男役を演じていた三遊亭圓生氏が着ている着物の色でもある。

もちろんただの偶然の可能性もあるわけだが、わざわざ死神の説明として今着ている服の色を出す必要性を考えると、まわりオチを想定してのことだったのかもしれない。

そう考えると、ここでの死神の言葉、「お前(おめえ)と俺は昔から古い因縁もあるし

…」という言葉も重みを増すというものだ。

 

この「まわりオチ」を踏まえて曲の映像を改めてみてみると、米津玄師氏が複数の死神を演じているのは、男が死神となってしまうサゲを意識しているものだといえるだろう。

 

6. 死神は「一度死んだ神」か

これまでの考察から、米津氏の曲「死神」では、男が死神になるというサゲが暗示されている。

このサゲ自体はとても面白いのだが、一つ疑問も生まれる。

男はなぜ死神になってしまったのだろうか?

 

ここで、元となった話であるグリム童話の話をしたい。

このグリム童話「死神の名付け親」には、実は、落語「死神」で省かれている設定がいくつかある。

特に大きく削られた最初の設定は、男の親が死神に名付け親を頼む点だ。

 

その内容は以下の通り↓↓↓

男の親は大変貧乏であり、13番目(タロットカードの死神と同じ番号だね)に生まれた男の名付け親を探すため、大通りに出かけた。最初に出会ったのは神様だったが、男の親は「神は金持ちと貧乏人という差をつくる」と断る。次に出会ったのは悪魔だったが、「悪魔は人を騙し、道を踏み外させる」とこちらも断る。そして最後に出会ったのは死神で、「死は誰に対しても平等」ということで死神に名付け親を頼むことにした。

 

名付け親とは、その名の通り名前を付ける人のことだが、親子の縁を結び後見人になるという意味合いも含んでいる。一部では、名を与えるということは、力を分け与えることだとも信じられていた。

グリム童話に出てくる男の親は、死神は神や悪魔と違って誰に対しても平等であるため、男の名付け親に選んだ。

 

では、この曲や落語の死神はどうだろうか?

死神は、男を貧乏人から金持ちにし、男に死神との約束を破って金を得るという人の道を踏み外すような行為をさせるに至った。

まるで、先に不平等だと言われた神と悪魔のやることである。

 

さらに、男は、病人の寿命を変えるという不平等でものすごい力を持っている。

一方から見れば、病人を救う奇跡のような所業を成し、自分の寿命を犠牲にしてまで商家の主人の命を救った人物。

その献身的な自己犠牲は、まさにイエス・キリストのようである。

 

死神は、一神教のキリスト教では悪魔的な役割を担うが、もともとは神の一柱。

そしてグリム童話における死神は、男の名付け親。つまり、男の「父」なのだ。

 

三位一体の教えに則れば、イエスのような男も、名付け親(父)である死神も、同じ存在ということになる。

13番目に生まれ、死神という「父」をもち、自己犠牲的に人々を救ったように見える彼。

 

この曲「死神」は、男が「人の普遍的な罪」を背負って死に、そして、神となって復活した話ともいえるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

以上、「死神」の考察・解釈でしたが、いかがだったでしょうか?

この「死神」という物語に少しでも興味を持ってもらえたら嬉しいです。

ご意見・ご感想、お待ちしております!