はあァァ~~~~~~~~~~~~??
『SPY×FAMILY』ED………
最高か?
「SPY×FAMILY」は遠藤達哉先生の漫画で、掲載している集英社「少年ジャンプ+」で様々な最高記録を樹立した大人気作品です。
今季、古橋一浩監督のもとアニメ化しているんですが、これがまたいい作品なんです。
スパイ漫画かと思いきや、ドタバタ勘違いコメディであり、そして「家族 」というものについて改めて考えさせてくれるも感動もの…
そして、このエンディングもまたとってもいいんですよね……
主題歌は星野源さんが歌う「喜劇」。
まーじで作品に対する解像度が高すぎる曲でして、それが映像とも相まって胸が締め付けられるエンディングとなっています。
というわけで今回は「SPY×FAMILY」のエンディングを考察・解釈していきます!
以下、歌詞は星野源氏の『喜劇』から引用しています。
1. 椅子を探すアーニャ
争い合って 壊れかかった
このお茶目な星で
生まれ落ちた日から よそ者
まず、考察すべきは「椅子」だろう。
スパイファミリーでは、「椅子」が裏のテーマとなっている。
というのも、各巻の漫画表紙では、それぞれ有名なデザイナーズチェアとそれに座るキャラクターが描かれている。
そしてこのエンディングでも、展示の前を歩くアーニャは蛍光の線画で描かれたいくつもの椅子を通り過ぎていく。
※ちなみに縦長の道路標識のようなものはフランク・ロイド・ライトのフロアライト。
ここにたくさんの種類の椅子があるように、椅子にはいろんな種類がある。
仕事用の椅子、食事をするための椅子、くつろぐための椅子。
その場その場に適するように作られたこの家具は、まさに、いろんな表情を持つといえる。
これは、その場その場に適した人物を演じるスパイのロイドだけでなく、全てのキャラクター、ひいては私たち自身にも言えることだろう。
そして「椅子」とは「腰を下ろす」ためのもの。
つまり「居場所」だ。
「争い合って 壊れかかった このお茶目な星」
この「星」とは、大戦後も冷戦状態が続くスパイファミリーの世界であり、多くの争いがいまだに絶えない私たちの世界ともいえる。
この星に生まれ落ちた瞬間から、私たちは自分以外は他人という一個人として生まれる。
特にアーニャは出生が特殊であり、「普通」ではない自分をよそ者だと感じているのだろう。
それは、この美術館のような展示にも表れている。
この漫画は「思惑が噛み合っていないのに表面的には奇跡的に噛み合う勘違い劇」のコメディなのだが、これを楽しんで観ているのは思惑を知っている私たち視聴者とアーニャである。
要するに、本音が見えるアーニャは娯楽を楽しむ視聴者。
この場面は、アーニャが他人を「絵画やテレビの中の人物」のように感じており、自分はそちら側に行けないよそ者だと感じていることを示しているのだろう。
そんな世界のなかで、彼女がたくさんの椅子を通り過ぎながら歩いていくのは、彼女が「自分の椅子」を探しているからではないだろうか。
つまり、「自分の居場所」を。
そして、彼女は二人に出会う。
ロイドとヨル。
最初に二人に会ったとき、やはりアーニャにとっては絵画を見ることと同じ、違う世界の人間だったのだろう。
しかし二人は動き出し、そして絵画の枠から出ていく。
そう、彼女にとって、ただの展示ではなくなってしまったのだ。
2. 画面の中から現実へ
涙枯れ果てた
帰りゆく場所は夢の中
絵画から二人が居なくなった後、よくあるスパイ映画のようにエレベーターが下まで降りスパイ本部へとたどり着く。
そこで、アーニャは映画を見るようにモニターを見て楽しむが、モニターの中だったのものは突然そこから飛び出し、彼女に降りかかってきた。
そう、画面の奥だと思っていた世界が彼女の前に、彼女の現実に来たのだ。
零れ落ちた 先で出会った
ただ秘密を抱え
普通のふりをした あなたと
彼女の世界に降り立ったのは、「普通のふりをした」ロイドだ。
この星のなかで「普通」の中から零れ落ちてしまった異分子であるアーニャ。
だがしかし、そこでアーニャはロイドと出会い、そしてヨルと出会えたのだ。
探し諦めた
私の居場所は作るものだった
「普通のふりをしたあなた」はおそらくロイドだが、「普通」「探し」「諦めた」の歌詞の部分では、それぞれの歌詞を表現するキャラクターたちが登場する。
「普通」→級友と先生、つまり普通の人々
「探し」→フランキー、つまり情報
「諦めた」→ユーリ、ユーリはヨルの血縁者、つまり血のつながり
アーニャはいままで、きっと、自分の居場所である「家族」を探していて、そしてそれには血のつながりが必要だと思っていたのだろう。
しかしそれはアーニャには叶わないものであり、それを表現するために、窓の外にユーリを置いているのだろう(映画などでよく使われる表現。線を入れたり、違う立ち位置にすることで物理的にも精神的に距離があるもしくは相いれないことを表現する)。
ちなみに、アーニャの横に生けてある花はアマリリスかと思われる(たぶん)。
花言葉は「輝くほどの美しさ」。
ユーリにとってのヨルであり、もしかすると、アーニャのもつ家族への憧れを示しているのかもしれない。
けれど彼女は気づいた。
「家族」というのは血のつながりだけで成り立つものではない。
「家族」、つまり「自分の居場所」は作れるということに。
そのきっかけは、そう、彼女が自ら立ち上がって解いたクロスワードだ。
3. 家族
あの日交わした
血に勝るもの
心たちの契約を
たくさんの人のなかに立つアーニャ。
人々が誰も彼も色をもたず灰色なのは、アーニャが人々を絵画やテレビのような異なる世界の人と感じているからだろう(特にこの時代設定のテレビは色がついていないからね)。
学校へ通い、普通の人たちと過ごすなかでも、どうしても取り除けない孤独感。
家族で帰ろうとする人々は、アーニャにとって別の星の人間に思えてしまうのだろう。
そしてそうだとすれば、アーニャはこの星にひとりぼっち。
アーニャは生まれてからずっと、きっと、そう感じてきたはずなのだ。
手を繋ぎ帰ろうか
今日は何食べようか
「こんなことがあった」って
君と話したかったんだ
いつの日も
君となら喜劇よ
踊る軋むベッドで
笑い転げたままで
そんな彼女を迎えにきたのは、そう、ロイドだ。
はァ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(涙腺崩壊)
そこにヨルも加わり、三人は仲良く、そうとても仲良く家路につく。
ここでロイドやヨルの顔がなく灰色なのは、まだアーニャにとって観る対象だからだろう。
そして某日常アニメ「サ〇エさん」のごとく家に着き、家の中で三人は踊り出すわけだが、ここで二人にはスポットライトが当たり顔と色が生まれる。
細かく言えば、家の中というのはいわゆる心を許していないと入れない場所であり、家の外から中へ移動するとともに色や顔が生まれるということは、仮初から本物へと成長したことを暗示しているのだろう。
そして、スポットライトが付くということは、これまでアーニャ一人だった世界が舞台となり、ほかの登場人物が現れたということ。
そう、アーニャは視聴者ではなく、観られる側へとなったのだ。
彼女があこがれていた、そちら側。
そしてその舞台はもちろん、「喜劇」だろう。
4. そして喜劇は続く
ふざけた生活はつづくさ
ここで、曲の最初から出てきていた蛍光の線画に着目したい。
彼女がなじめないこの世界の街並み、椅子、スパイ組織、スパイ道具、探しているものへと続くはずの階段。
これらはおそらく「涙枯れ果てた」彼女が夢見ていたものだろう。
しかし蛍光の線画で表されるものは、ロイドとヨルに出会ったことで、舞う花々や鳥、キラキラへと変わっていく。
そして、二人に支えられながら飛んでいく彼女の背景は、子どもらしい落書きになっている。
帰る場所のなかった彼女の夢は、今は両親に見守られた中で見る自由な夢へとかわったのだ。
それを可能にしたのは、「血」のつながりなんかではなく、「心たちの契約」なのだろう。
誰かを大事に想い、そして一緒にいたいと思う心の在り方こそ、家族をつくるものだから。
そう、彼女は、「自分の椅子」を見つけたのだ。
そしてその想いが続く限り、この喜劇はつづくのだろう。
というわけで『SPY×FAMILY』エンディングの考察・解釈でした!!
いやーすごくいいエンディングですよね?
それに、こんな悲劇になりそうな背景をもつ世界を「お茶目な星」という言葉だけで「喜劇」にしてしまう星野源さんのセンスにもほんと脱帽です。
私、喜劇ってとても好きなんですよ。
笑えるのはもちろん、そんななかでもどこか自分の在り方にも迫るものがある。
笑いながら学べるってすごく素敵ですよね。
この『SPY×FAMILY』という作品は、まさに現代喜劇の代表作といえるのではないかと思うんです。
なんせ、ロイド・フォージャーの「ロイド」という名前は、直訳すれば「灰色」で、このエンディングの最後のほうに出てきた人々のように暗いイメージがありますが、綴りは違えど三大喜劇王の一人、ハロルド・ロイドと同名でもありますからね笑
ぜひ、まだまだ続く『SPY×FAMILY』という喜劇を、皆で楽しみましょう!!
『SPY×FAMILY』OPの考察・解釈はこちら↓↓↓