☆この記事は、ヨルシカの「あぶく」について歌詞とMV、そして「エイミーとエルマ」の物語も添えながら考察・解釈しています。
さて、今回考察するのはこちら↓↓↓
コンポーザーのn-buna氏とボーカルsuis氏によるロックバンド「ヨルシカ」の楽曲。
2026年春アニメ『LIAR GAME』のオープニングテーマとして書き下ろされた作品です。
お洒落さと繊細さをあわせ持った音と歌詞に加え、映像制作ユニット「擬態するメタ」による実写とアニメを融合した演出も話題となり、海外のYouTubeランキングでも注目を集めました。
ここでは、「あぶく」について歌詞とMVから考察・解釈していきますが、結論から言うと、この作品の核は、「エイミーとエルマの物語」にあります。
この物語を知る方も知らない方も、ぜひ楽しんでいただければ幸いです。
1. テーマはトートロジー
この曲のテーマはまさに「トートロジー」。
それを明言するヨルシカのコメントがこちら。
リンク先のコメントを見ればわかる通り、トートロジーで遊んでいらっしゃる。笑
ヨルシカ氏のコメントを個人的に解釈するとこんな感じ↓↓↓
テーマは「トートロジー(同語反復、同義反復)」。
生活(私たちの日々)はトートロジー(同じことの繰り返し)で、浮かんでは消えるあぶく(泡)そのもの。日々自身の内側に生じたものを外に生み出すことを繰り返し、そしてその生じたものが何なのかを常に探している。
そこに新しい事象はなく、すべては繰り返し(反復)。新しく見えても、「新しい反復」でしかないのである。
目の前のもの(題材)に対し、多様な角度から観察し、手を替え品を替え出力しているだけ。ただひたすら自分の中に灯った火(生じたもの)をひたすら出力していく繰り返しでしかない。
けれども、そんな愚直な繰り返しであっても、繰り返すことのできる誠実さこそ愛すべきもの。
そんな愛すべき愚直さを、アニメ『LIAR GAME』の主人公たちの行動や想いと重ねて感じ取ってもらえると嬉しい。
『LIAR GAME』は「週刊ヤングジャンプ」にて連載されていた甲斐谷忍氏のサスペンス漫画。お人好しでバカ正直なカンザキナオが、元天才詐欺師のアキヤマシンイチとともに裏切りや策略が渦巻くゲームに挑む物語である。
このコメントの通り、「あぶく」の歌詞や音楽、MVは、『LIAR GAME』の中の心理戦の繰り返しや協力と裏切りの流れ、騙されてもなお人を信じ続ける主人公の愚直さなどと見事にリンクしたものとなっている。
と、いつもであればアニメの内容とともに歌詞やMVを考察させてもらうところだが、今回はいったんアニメと切り離して考えさせてもらいたい。
なぜかというと、私はこの曲を初めて聞いたとき、
「創作活動における創造の苦悩」
を表現しているように感じたからだ。
※ちなみに、ヨルシカのこれまでの創作活動とこの曲との関連については、以下の記事がきれいにまとめています。あぶく【ヨルシカ】歌詞の意味を考察!トートロジーが映す「愚直な反復」とアニメ『LIAR GAME』との共鳴 | SEEEK
「創造の苦悩」はまさに、ヨルシカの主題とも言えるだろう。
ヨルシカの特徴の一つには、「コンセプトアルバム」がある。
これまでに発表された『だから僕は音楽をやめた』(1st アルバム)『エルマ』(2nd アルバム)『盗作』(3rd アルバム)『二人称』(5th アルバム)は、すべてn-buna氏の創作した物語を軸に制作されている(※ 4th アルバムの『幻燈』は音楽画集のため、ここではいったん除外させてもらう)。
そしてそのすべての物語は、主に作詞という「音楽作品の創造の苦悩」を描いている。
そのため、この4つのアルバムの物語はすべて「あぶく」の歌詞ともリンクするのだが、今回はそのなかでも、すでにアルバム特典が公開されていて、歌詞や映像と最も関連の深い
「エイミーとエルマの物語」
(ヨルシカのアルバム『だから僕は音楽をやめた』『エルマ』より)
の視点を取り入れたい。
※すべてのアルバムからの考察は以下の記事にまとめる予定です。
ヨルシカ「あぶく」を徹底解明【MUSUBIKI Pro】※近日公開予定
2. 新しい反復というループ(MV)
エイミーとエルマの物語とは?
ヨルシカのアルバムの中でも、『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』は対をなす物語。音楽に没頭する「エイミー」と、彼に惹かれて詩を作るようになった「エルマ」の想いが描かれている。
1stアルバムの『だから僕は音楽を辞めた』では、余命わずかなエイミーが人生最後の旅として北欧へ向かい、そこで書き留めた日記や詩をエルマへの手紙として遺している。続く『エルマ』では、その手紙を受け取ったエルマが、エイミーの遺した詩に応えるように自らも詩を作りながら、彼の旅した道のりを追体験する様子が描かれている。
より詳しい内容はこちらを参照 SPECIAL| ヨルシカ OFFICIAL SITE
もし、この二人をMVの登場人物に当てはめるとするならば、主人公の男が「エイミー」、後半にテレビからMVの世界に入り込み共闘する視聴者が「エルマ」となる。
まずは、MVの構造についてみてみよう。
MVでは、主人公の男がある部屋で目覚め、戸惑っていると、ドアから入ってくる暗殺者に殺されるシーンから始まる。
次に、時間は巻き戻り、主人公は再び部屋で目覚めて、また暗殺者に殺される。
そうして、主人公の「目覚め~殺される」の繰り返しが、「あぶく」の世界である。
まさにテーマの「トートロジー」を表現する「繰り返し」である。
実は、この「繰り返し」を表現するものとして、MVにはいくつかの仕掛けが施されている。
ペンローズの階段
まず目につくのは壁にかけられた絵。
部屋の壁には、現実には不可能な図形「ペンローズの階段」と、そのペンローズの階段の影響を受けたエッシャーの「上昇と下降」の中間のような絵が掛けられている。
このペンローズの階段はいくら登っても永遠に高いところには辿り着くことのできない無限ループの錯視。

11時56分の時計
また、面白いのが右上に掛けられた時計。

曲が始まってすぐに11時56分になるのだが、この曲がが4分弱(3分54秒)ということを考えるとなんとも憎い設定だ。
この曲が終了してもなお、12時を超えて明日を迎えることはできないのだから。
とはいえ、MVのループする世界は毎回同じわけではない。
主人公は殺される前の記憶を持っており、「目覚め~殺される」ループには、ひたすら反復(戸惑い、焦り、抵抗、工夫)→ 自失 → 糸口の発見、と男の「新しい反復」が数多く描かれている。
そして、最終的に、男は協力者を得て、殺されるループから抜け出すことができるのだ。
つながるループ
これを象徴するのが、MVの後半に出てくる絵だ。
この部屋の壁には、エッシャーの「滝」に似た絵と「メビウスの輪(帯)」の絵が掛けられている。

エッシャーの「滝」は、現実には不可能な図形「ペンローズの三角形」をもとに作られた絵画。「上昇と下降」と同様に、滝、水車、水路が永遠に循環し続ける構造をアートにしたものだ。
一方で、MVの絵はこの「滝」に似ているものの、少々異なる構造をしている。
水路から溢れた滝は同じ水路には戻らず、さらに下へと落ちていき、別の「ペンローズの階段」のような道につながったかと思うと、水車によってその道の中心へと落ちていく。
画面の解像度が低いため正確ではないかもしれないが、二つの経路がつながる展開は後半の視聴者との共闘を思い描かせるものとなっている。
メビウスの輪は、細長い帯を1回(180度)ひねって両端を貼り合わせた輪のことで、帯の端を辿っていくと表と裏の両面を一周するという「表裏一体の連続した一つの面」になるのが特徴である。
この表と裏がつながっているという点は、ループの主人公がスーツの男から視聴者へと変わっていったことを暗示しているのだろう。

エイミーは、人生最後の旅のなかで、これまでの自分について語る。怒りを原動力に曲を作っていたこと、その怒りすら湧かなくなってしまったこと。そして音楽を一度辞めてしまったこと。けれども、エルマの詩を見たことで再び曲を書き始めたこと。
今まで、僕の人生は妥協の連続だった。本当に、全てに妥協して生きてきた。
今だから言える。そんな僕が。一度音楽を辞めた僕がまた曲を書き始めたのは、君の詩を読んだからなんだよ、エルマ。君はなかなか見せてくれなかったけど、あの時触れた君の詩に、僕は月明りを見たんだ。
夜しか照らさない無数の光だ。
薄く眩しく、淡い月明かりとはとても思えない程に
『だから僕は音楽を辞めた』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
曲作りは創造であり、新しい反復の繰り返し。
つまり、エイミーは、音楽に熱中しながらも(ひたすら反復)、挫折して一度諦めてしまったが(自失)、「エルマ」という糸口を見つけたことで再び曲を作り始める(糸口の発見)。
エイミーの人生は、MVの主人公と同じ流れなのである。
そして、「自分以外の人間」という糸口を見つけ、暗殺者から逃れた主人公のように、エイミーもまた、この反復から抜け出すのである。
死という形で。
3. 欲望のまま、繰り返し出力する日々(歌詞)
エイミーとエルマ、どちらの物語においても、描かれているのは「音楽作品の創造の苦悩」。特に言葉を使って表現する作詞の苦悩である。
「あぶく」の歌詞には、このテーマを彷彿とさせる部分が多い。
この点について、より整理するために、いくつかのモチーフに注目しながら歌詞を考察していきたい。
まず、歌詞の中にはいくつかの単語が繰り返し登場する。
「獣」「あぶく」「手」「火」
本作が、エイミーとエルマの物語と同様に創造の歌であるのならば、
「火」は創作意欲(創造の喜び)、
「あぶく」は内側から生じた(アイディアのような)ものが外側に出てきた瞬間(けれどもすぐに泡のように消える)、
「手」はその生じたものを形にする手段、
といえるだろう。
では、「獣」は何を意味するのか?
ここで、最初の歌詞を見てみよう。
あぁどうしようもないほどに
私に蠢く獣
水面浮かんで浮かんでは消えるあぶく
あぁどうしようもなく悲しい
私を動かす獣
トートロジー握った手のあぶく
「獣」という単語は「私の中に蠢く」ものであり「私を動かす」もの。
「火」と同様に内側にあるものであり、類似しているが、「私」の意識とは別に内側に存在し、「私」をより本能的に突き動かすものだとすれば、
これは「衝動」が最も近いだろう。
何かを創りたい、より良いものを作りたいという創造への衝動。
おそらく、そんな衝動のままに「私」は内側から浮かんできた想像を形にしようと、創造しようとしたはずだ。
しかしながら、多くの人がそうであるように、最初から自身の想像通りのものを作り出すことは難しい。
その多くは泡のように、うまく出力できないまま消えていったのだろう。
創作とは「手」を動かし作り出すもの。
「トートロジー握った手」とは、コメントの「同じ対象を何度も違う側面から描くデッサン」のように、何度も繰り返し内から湧き出るものを作り出そうとする作業のことだろう。
そして、それもまた、作られては消える、「泡」のようなものに違いない。
何度繰り返しても思うように作ることができない。けれども止まることもできない程に「私」を突き動かす衝動。
そんなどうしようもない苦しみを持つのが、この歌詞の主人公である「私」。そして、音楽に身を捧げたエイミーである。
過ぎ去る雲を思うより
遥かへ遠吠え
息継ぐ暇もないほど
苦しいあれで
ここで注目すべきは、突如出てきた「雲」だ。
「雲」はヨルシカのアルバムにもよく出てくるモチーフ。
ここの「雲」を解き明かすヒントは、金子みすゞの詩、「青い空」にあるかもしれない。
青い空
なんにもない空
青い空、
波のない日の
海のよう。あのまん中へ
とび込んで、
ずんずん泳いで
ゆきたいな。ひとすじ立てる
白い泡、
そのまま雲に
なるだろう。「金子みすゞ 童謡全集」(JULA 出版局) みすゞうたより引用
青い空を海にたとえ、そこを泳ぎまわる自分のたてた泡が、やがて雲になることを想像する。そんな美しく優しい詩である。
「泡 」「雲」はもちろん「あぶく」にも使われるモチーフである。
「泡」も「雲」もエネルギーの放出や差によって生成される点では似ているが、この二つの違いは「雲」は「泡」よりも形を長く保つ、という点だろうか。
(ちなみに、ある特定の環境下では、海の泡の破裂などにより海洋生物由来の微粒子が舞い上がり、氷雲形成を促進するという研究もある。実は泡は雲と関係が深い。)
それに加え、実は、エルマが思い出すエイミーの言葉の中では「海」が重要なキーワードとなっている。
「今、君は想像力という名前の海の中にいる。」
『エルマ』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
これらを考慮して歌詞をみてみると、「私」は想像力の「海」にいて、そこで動いたり口から吐き出したりすることで出た「泡 」は、青い空の「雲」のように不確かではあるけれど形あるものへとなる、となる。
つまり、
「海」は想像という私の内側
「泡」は先にのべた「あぶく」と同義(内側から生じたもの)
「雲」は「泡」のような内側から生じたものを何とか形にした作品
といえるかもしれない。
ここの歌詞では、「私」は雲よりも遥か遠くに心を焦がしており、何とか作品(雲)を作るが、それらよりもずっと先の芸術を追い求める心境を暗示しているのかもしれない。
壁に掛けられた「ペンローズの階段」の絵にも「雲」が描かれており、なんとか「雲」のその先へと進みたい、つまり素晴らしい作品を作りたいのに、その先に進むことの出ないもどかしさを表現しているととれる。
内なる獣(衝動)は遥か高みを目指して吠えるが、想像の海の中で息を吐きだし泡(もしくは雲)にするばかりで、息を吸うことができないでいるのかもしれない。
悠々悠々夢を焼け
魂の白い白い色で
喜びの火に火をつけたいだけ
「悠々」には、大きく二つ意味がある。
一つは、時間や心に余裕があり、落ち着いて物事を行う状態のこと。
もう一つは、はるか遠くであること。
歌詞の「悠々」の反復は、テーマであるトートロジーを文字通り体現しているだけでなく、この2つのどちらも意味しているのかもしれない。
つまり、落ち着いて着実に(悠々)、はるか遠くの(悠々)夢を焼く、ということだ。
ここでいう「焼く」は、おそらく写真のネガフィルムの「焼き付け」を意味するのだろう。
ネガフィルムの場合、写真を紙に印刷する際に光を使って焼きつける。
ここでは、「魂の白い色」という表現をしているが、おそらくこれが光だろう。
この場合、魂の白い色(光)で遥か遠くの夢を着実に(心や眼に)焼き付ける、それにより創作の喜びに火をつける、という意味になる。
一方、「魂の白い白い色で」は次の「喜びの火に…」にかかっている可能性もある。
その場合、魂の白は火であり、それによって創作の喜びの勢いを増したい、という意味かもしれない。
白い火といのは、日常で使う火のなかでは最も高温な状態を示す。
つまり、最も熱い魂をもって、創作の喜び、そして創作意欲を勢いづけていく、ということだろう。
想像は少しの泡銭
冷めない言葉の両手で
燃え尽きないものを数えて
掬いたいだけ
「泡銭」とは、苦労や労働をせずに、楽に手に入ったお金のこと。
この場合、自分の「想像」のみからできた作品で、金銭的もしくは精神的な報酬を楽に手に入れることができたことを言っているのあろう。
そうして「私」は「新しい反復」を繰り返し、はるか遠くを夢見て作品を作っていく。
冷めない言葉、つまり熱をもったまま、誰かの心に残る言葉で、自身内側からあふれて燃え尽きないものを形にしたい、と思いながら。
「両手で掬う」というのは、水などの液体をこぼさないように手に入れる、というイメージだろうか。
内側にある想像力の海からあふれ出てくるものを、こぼしながらも何とか全部手に入れたい、形に残したいと、慣れない手つきでながらも必死に反復する「私」。
きっとエイミーも、いや誰もが、何かに夢中になったときに同じような「反復」をしたことだろう。
4. 慣れた男の本当の願い
さて、ここからは、ひたすら衝動のままに、下手でありながらも進んできた男が一変する。
さぁ銘々ご覧遊べ
私の乾いた獣
ふつふつ怒った音を鳴らして
「さあ銘々 ご覧遊べ」
これは「さあさあみなさん、見てごらんなさい」といった意味になり、「ご覧遊ばせ」ではなく「ご覧遊べ」の場合は、より芝居がかった劇のような雰囲気になる。
まるで見世物小屋で客を呼ぶための口上である。
そこで見せ物となるのは、内なる獣。
想像の海から打ち上げられ乾ききった獣を、「私」は閉じ込め飼いならそうとしたのだろう。
沸々と、沸騰する直前のような怒りの音が聞こえないよう耳を塞ぎながら。
あぁろうそくの火を消して
私に残ったものは
滑稽なペダンチスムだけ
「ろうそくの火」は、先に述べたように、「創作意欲や創作の喜び」を意味すると考えられる。
そして「ペダンチスム(ペダンチズム)」とは知識をひけらかす態度のこと。
衝動の抑え、内なる声に耳を塞いだ結果、創作に対する情熱の火は消え、残ったものは滑稽なペダンチズム。つまり、過去の作品に倣ったものや技術・知識を詰め込んだだけで、自分の内側から湧く欲もメッセージもオリジナリティも無い滑稽な作品ばかりになってしまったのだろう。
エイミーのセリフには以下のようなものがある。
松尾芭蕉は「俳諧は三尺の童にさせよ」という言葉を遺した。音楽に関しても同じことが言えると思ってる。慣れて技巧ばかり凝らすようになってしまった作品よりも、稚拙であっても艶のある衝動を感じる作品こそが本当に良い物なんだろう。だから、僕の音楽は、それが本当に楽しくなった、初期衝動の二、三年で終わってしまっているんだ。有り体に言ってしまえば、賞味期限が切れたんだ。
『だから僕は音楽を辞めた』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
つまり、一番は、エイミーが夢中で模索し、ひたすら反復して創造していた時期であり、二番は衝動を無くして、慣れて技巧ばかり凝らした作品ばかりを作っていた時期であるといえる。
過ぎ去る雲にどうして
私は遠吠え
悲しむ暇もないほど
悲しいあれで
ここまでで、すでにある程度形となった作品は多かったはず。そして、作りたいという衝動(獣)には蓋をしているはずなのに、「私」は遠吠えせずにはいられない。
「私」、そして「エイミー」にとって、たとえ衝動を抑えようとも、自分に素晴らしい作品が作れないとわかっていても、追い求めることをやめることができなかったのだろう。
先のエイミーの言葉には以下のような言葉が続く。
僕には音楽しかない。それでも思うように作れず、かといって現状を打開する心意気も、目標もなく、ただだらだらと、漫然と、鈍重な動きで、芸術の真似事を続けていた。ブレーキの壊れた自転車を漕ぐみたいに。ここ数年はずっと、朔太郎の詩集に書かれているあの一節が散ら付く。
「ぼくの感情を燃え爛すような構想は ああもう どこにだってありはしない」
『だから僕は音楽を辞めた』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
エイミーは、ずっと、自分の感情を揺さぶるような、燃え爛すようなものを求めていたのだ。
次に続く歌詞には、その音楽への執念が表れている。
想想想像で一つだけ
寂しい私に太陽を
喜びに火を、火をつけておくれ
「太陽」はまさに遠く遥かの目標であり、神の宿った作品であるといえる。
作品の中にこそ神様は宿る。それが彼の口癖だった。…(略)。だからこそ、手の届かない位置にまで行ってしまったそれを、私たちは崇めるように触れるのだと。
『エルマ』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
なんどもなんども自分の想像だけを繰り返し、他人との関わりを持たなかったエイミー。その中で、一つだけでもいいから太陽を。神の宿る作品を作りたいと切望していたのだろう。
焦燥も少しの泡銭
苦しい私の両手で
燃え尽きないものを数えて
摘みたいだけ
作りたいけれど作れない。そんな焦燥すら利用して一つの曲を作ればそれもまた、自身をほんの少しだけ喜ばせる泡銭となる。
ここで、一番との大きな違いは、「摘みたい」だろう。
一番では、不器用で多くのものがこぼれてしまう中であっても、なんとか多くの想像を手に入れたいという「掬う」という表現が使われていた。
一方で「摘まむ」という表現は、ものを手に入れる際に慣れている様子のように感じる。
要するに、燃え尽きない、おいしいところだけをうまく手に入れたいということだ。
苦しみながらも、漫然と芸術の真似事を続けていたエイミー。
しかしそこには、自身の才能の無さを知られることを危惧する心と、目標もなく努力しない怠惰さとがあったのかもしれない。
5. 無力感から突破口へ
半信半疑の満身創痍で尚
太陽が欲しい
だからもっと私に火をつけて
吐き出して
超能力でも創作物でも現実逃避でもいい
もっと私に火をつけて
私を震わせて
ここまで、「私」(エイミー)はすでに繰り返される反復に疲弊し、それでも辞めることができず、満身創痍だったに違いない。
エイミーは、ある時期、作品を貶された怒りを原動力に創作を進めてきた。
しかし、旅に出る前、路上ライブで歌を聴いていた中年男性に「詰まんない歌だな。」と言われ、怒りすら湧かない自分に気づいたのだ。
この時すでに、エイミーはMVの男と同様に、無力感に苛まれ、無気力状態になっていたことだろう。
エイミーにとって、最も彼を痛めつけたことは何か。
おそらく、それは「自分に才能があるかどうか」信じ続けること。
自分には才能があると信じながらも、才能がないかもしれないと恐れる心。
この「半信半疑」は、彼をずっと苦しめてきたに違いない。
それでもなお、彼は「太陽」を求めた。
神の宿る作品を。
震えというのは怖いときや寒いときだけでなく、興奮状態にあるときにも起こるものである。
つまり、「私」および「エイミー」は、
想像を形にしたい(吐き出したい)、創作したいと、自身を興奮させる「何か」を、「超能力でも創作物でも現実逃避でも」なんでもいいからと求めたのだろう。
夕夕夕夕夕、目を焼け
魂の白い白い色で
喜びの火に火をつけたいだけ想像の頭上の上を行け
冷めない言葉の両手で
燃え尽きたものも全て
掬いたいだけ
「夕夕夕夕夕、目を焼け」
最初のサビと同じ音だが、漢字が変わったこの部分。
目を焼けということは、神の宿る作品、つまり太陽を目が焼けるほどに見続けろ、ということだろう。
そうして創作の喜びを思いだし、自身の頭で想像できることを超えてさらに上を目指して創造しろと焚きつけているのだ。自分自身を。
そして、一番目のサビと同じように「掬いたい」となるのだが、異なる部分は、「燃え尽きないもの」ではなく「燃え尽きたものもすべて」という部分になる。
ここのMVとのリンクは素晴らしいのでぜひ映像を見てもらいたい。
MVでは、主人公の男がテレビの画面(我々側の画面)が割れることに気づき、視聴者を連れ出して共闘する熱い展開が繰り広げられている。
実は、この画面が割れるという突破口は、すでに一番の時点(1分12秒)には示されていたのだ。

つまり、「燃え尽きないものを掬う」だけでは取りこぼしていたヒントを、「燃え尽きたものすべて掬いたい」と動いたことで気づくことができたといえる。
挫折し、一度音楽を辞めたエイミーは、再び音楽に向き合った理由を次のように述べている。
今まで、僕の人生は妥協の連続だった。本当に、全てに妥協して生きてきた。
今だから言える。そんな僕が。一度音楽を辞めた僕がまた曲を書き始めたのは、君の詩を読んだからなんだよ、エルマ。
『だから僕は音楽を辞めた』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
ずっと一人で音楽を続けてきたエイミーにとって、挫折した際、「誰かと協力する(関わる)」という解決法は当初思いつかなかったのだろう。
けれども、「エルマ」と出会ったことで、エルマの詩に出会えたことで、彼には誰かとの関わりが自分の中の創作の喜びにつながることを知ったのだ。
そして、MVでは、主人公の男は暗殺者に殺されるというループから外れることができた。
同様に、エイミーは、人生の終わりという形で、この「反復」を終えたのだ。
6. もう一人の物語
さて、ここまで、私はこの歌詞とMVをもとに、この曲がエイミーの物語であると解釈してきた。
しかしながら、実は、この曲は別のもう一人の物語でもあるのではないかと考えている。
それが、 エルマ である。
最初に述べたように、エイミーにとっての創作の突破口は「エルマ」であり、MVでいう共闘する視聴者が「エルマ」の役割を担っているといえるだろう。
だが、この曲を単にエイミーの物語ととらえると違和感のある部分がいくつかある。
結論からいうと、この曲はエルマの物語でもあるのではないか、という仮説が立てられる。
①「私」
エイミーは、第一人称に「僕」を使用していた。
そして、エルマの第一人称は「私」である。
② 逃げたのはどちらか?
この曲がエイミーの物語である場合、MVで最後に主人公の男が部屋から出たことは、エイミーが人生の終わりという形で創作の反復というループから抜け出したと解釈した。
一方で、エルマの物語である場合、エルマがエイミーの優しさによって、彼の死の瞬間から逃げられた、とも解釈できるのだ。
エイミーがあの日、私を置いていなくなったときのことを覚えている。…(一部省略)。心の奥底には別の感情が隠れていた。私は少し、安堵していた。…(一部省略)。私は逃げ果せたのだ。彼の優しさによって。彼が目の前からふと消えてしまう、その終わりの瞬間から逃げられたのだ。
『エルマ』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
③ 月と青空、白い雲
エイミーとエルマは、お互いを神のようにとらえていた。
エイミー → エルマ
何かものを作る度に、見えない何かに動かされているような錯覚を覚える。
それはもしかすると虚無感だったり、悲しさだったり、喜びだったりの感情や感傷の類いが筆を進めているだけなのかもしれない。でも僕はそれを神様のせいだと考える。心臓から指先を伝って、この長方形の紙に下りていく。その瞬間が僕は好きだ。君もきっとそう思うだろう。…(一部省略)。創作なんてのは一種の宗教なんだ。僕の言葉の中にいつも君がいるのと全くおなじだよ。
『だから僕は音楽を辞めた』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
エルマ → エイミー
私にとっては今でも、貴方こそが神様に近い。 『エルマ』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
指先にずっと君がいる 『エルマ』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
この作品のなかで、「私」は太陽(神の宿る作品)を求めている。
エイミーにとって、エルマは「太陽」に近づくための鍵に他ならないわけだが、エイミーはエルマのことを「月明り」に例えることが多い。
君はなかなか見せてくれなかったけど、あの時触れた君の詩に、僕は月明りを見たんだ。
夜しか照らさない無数の光だ。
薄く眩しく、淡い月明かりとはとても思えない程に
『だから僕は音楽を辞めた』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
一方で、エルマは、エイミーを青空と重ねている。
ただ貴方を真似たものを書くたびに青空が浮かぶ
『エルマ』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
エイミーの詩は何処か懐かしい匂いがした 晩夏の青空みたいに深い色が見えた
『エルマ』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
①~③をまとめると、この曲はエイミーの物語であり、エルマの物語でもある可能性が高い。
実際、エルマはエイミーに出会って創作の世界に入った。詩を書き始め、跡を追って旅に出て、真似ながら曲を書いた。
MVの最後には、共闘する視聴者が暗殺者に殺されるループに入るが、エルマもまた、エイミーの人生をなぞるように、「新しい反復」を繰り返すのだ。
またこの曲をはじめから。
そして、エイミーはアルバムの物語の最後のほうで、このように述べている。
それでも私は、音楽を辞めた貴方の物語を描きたい。
私が彼の持った思想を引き継がないと、だれも報われない。私は私の人生で、彼の見た光を見出さなければならない。
『エルマ』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
エルマはエイミーの思想を引き継ぎ、「新たな反復」を繰り返す。
エイミーにとっての突破口はエルマ、MVでいうテレビの中の視聴者であったが、新たな反復のなかでもうその手は使えない。
エルマはエルマ自身の光を見つけていかなければならないのである。
エルマの書く日記帳は、以下のような言葉で締めくくられている。
デッキを登り切って今、私は船の向こう側を見ている。
彼が夜紛いと呼んだ、夜混じる夕焼けの色が、
水平線を赤く燃やしている。
『エルマ』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
「夕夕夕夕夕、目を焼け」は、まさにこことかかっているのかもしれない。
自分の光、太陽を探す永い旅が、これから始まるのだ。
7. 獣はどこから来たのか?
この曲は、獣がひとつのキーとなって物語を展開している。
ここでは「衝動」と解釈し、エイミーの言葉では「神様」とも解釈できる言葉だが、エイミーの手紙の中にはこの「獣」に関係する言葉が出てくる。
中島敦の山月記だ。
君の言葉、山月記の引用だったんだろう。木漏れ日みたいな月明りの下で。
『だから僕は音楽を辞めた』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
山月記とは、詩人としての大成を夢見るも挫折し、失踪後に虎へと変貌した李徴(りちょう)の物語。旅の途中で偶然再会したかつての友人の袁傪(えんさん)に、李徴は自らの内に潜む慢心や羞恥心を告白する。
国語の教科書で習ったことのある人も多いだろう。
エイミーは、この山月記の李朝を大きく取り入れたキャラクターだといえる。
山月記の李朝は、故郷で天才児として扱われ、プライドが高い人物。役人となるも下級の位であることに満足できず、辞職。偉大な詩人になることを目指す。
けれども、自分に才能がないこと、そしてそれが周りにばれることを恐れ、その道の師と呼べる人に学んだり、仲間と切磋琢磨することをしなかった(臆病な自尊心)。一方で、自分に才能があることを信じたい気持ちから、身分の低い役人の地位では満足できなかった(尊大な羞恥心)。
そのため、彼の詩は、技術はあるものの一流と呼ぶには何かか今一つ足りない出来で、それは彼自身も友人の袁傪も実感していた明らかな事実であった。
エイミーもまた、李朝のように人との関わりを絶ち、自分ひとりの世界で創作活動を行ってきた(臆病な自尊心)。
そして、そうして作られた音楽が、芸術とは呼べない代物であることにも気づいていた。
結局のところ生活がなかったら、物を作るこの身体がなかったら、何も物は生まれないんだ。どう足掻いても僕から生まれるものは全て僕の心、生活、体験に由来していて、僕の芸術はそのまま人生に紐付いてしまう。本当の鏡であるかのように。
これじゃ、ただの日記なんだよ。エルマ。
『だから僕は音楽を辞めた』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
また、彼は創作する行為自体にではなく、偉大な、つまり人に認められ名を遺す音楽家になることに幸せを見出していた。
そのため、仕事を見つけて普通の生活を送ることもできなかった(尊大な羞恥心)。
本当は僕たち創作家は、みんなヘンリーダーガーであるべきなんだ。評価や名声や、お金や権力なんてどうでも良い筈なんだ。…(一部省略)。彼はきっと作る行為自体に幸せを見出していたんだろう。…(一部省略)。それなら、僕のしてきたことはただの倒錯だ。売れるものを作りたい。他人よりも良いものが書きたい。ただ認められたいという理由しかなかった。…(一部省略)。それなら売れないなりに割り切れば良かった。何か仕事を見つけて、生活の合間にものを書いて、苦し紛れでも幸せを見つけなければいけなかった。
『だから僕は音楽を辞めた』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
そして、エルマは、彼の作品に対して、このような彼の自尊心や羞恥心が表れていることにも気づいていた。
エイミーの詩は何処か懐かしい匂いがした 晩夏の青空みたいに深い色が見えた それでも何処か排他的で、拒絶的で、彼を包む殻のような自尊心が 垣間見えて、私はそれが少し、嬉しかった
『エルマ』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
山月記で、李朝は最後に、袁傪に自身の家族のことをお願いする。
そこで、彼は、自分が、妻子の安否よりも先に自分の詩人としての活動について考える利己的な人間であると自嘲する。
本当は、先まず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己おのれの乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕おとすのだ。
『山月記』(中島敦)より引用。
そしてそれは、エイミーも一緒だった。
最後まで僕はこれだ。どこまで往っても作品のことばかりで、利己的で厭世家を気取る、芸術狂いの醜い化け物。
そうだ、結局僕には音楽しかなかっ
『だから僕は音楽を辞めた』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
これらの共通点から、エイミーは李朝のように臆病な自尊心、尊大な羞恥心をもった人物であり、内側に存在する「獣」は、李朝が身を堕としてしまった、虎に近いものだと思われる。
その一方で、李朝とエイミーには大きな違いがある。
そのキーとなるのが、袁傪とエルマだ。
袁傪は李朝の詩を記録として残したが、エルマはエイミーの曲を糧として自身の創作活動を進めた。
この違いは、李朝とエイミーの最後の違いを生み出している。
李朝にとって袁傪は詩と関係のない友人であり、李朝は詩人としては孤独だった。袁傪に残した詩も、人の心に響くにはどこか欠けており、彼は後悔したまま獣となってしまった。
一方で、エイミーはエルマの詩と出会えたことで、改めて自分の創作活動を見直す機会を得た。
一度は李朝のように獣に成り果て、音楽ができなくなってしまった彼。彼は最後に『エルマ』という曲を書き上げる。
それが本当に一流かはわからない。けれども少なくとも、一人の人間の心に大きく、深く、跡を残したことだろう。
8. 獣の正体
山月記で、なぜ李朝の変化した姿に「虎」が選ばれた理由は、おそらく虎のイメージにあるだろう。
昔の中国では大酒家のことおを「酒虎」と呼んでいた。
その理由の一つは、酒を飲みすぎた際に豹変し、怖いもの知らずになって暴れたりするところからきている。
李朝においてはまさしく酒に溺れたようなイメージがぴったり合うし、最後に月に咆哮するシーンは、彼の孤独さを美しく表現していると思う。
一方で、エイミーの内にいた獣は、虎ではないと踏んでいる。
その獣は、狼だ。
これはあくまで私の印象だが、その理由は3つある。
一つ目は、エイミーが気が大きくなって暴れたりするようなタイプではないこと。
エイミーはどちらかというと内に秘め、一人で涙を流すタイプである。
想い出を、作品を笑われたならその場でそいつを殴り飛ばしてやれたら、それだけで良かったんだ。自尊感情の裏に隠れて流す涙なんてのは、慰めにもならない。本当の毒だ。
『だから僕は音楽を辞めた』(ヨルシカ公式ホームページより引用)
二つ目は、歌詞の「遠吠え」。
虎の鳴き声は咆哮であって、遠吠えではない。
遠吠えといえば、犬や狼が遠くの個体に向けて発するもの。
文学では特に、孤独さの象徴としても使用される。
そして三つ目は、エイミーの旅先が、スウェーデンだということ。
スウェーデンのような北欧で、狼といえば、ハティとスコルが候補に挙がる。
2匹は巨大な狼で、ハティは月を追いかけ、スコルは太陽を追いかける。
北欧神話では、月食や日食が、二匹のせいで起こるとされていた。
どうだろうか?
エルマの中に月明りを見たエイミー、そしてエイミーのような青空の中で新たな光を追い求めるエルマの関係と重なって見えるのは私だけだろうか?
9. 最後に
ということで、「あぶく」の考察・解釈、いかがだったでしょうか?
またまただいーぶ長くなってしまいましたね。
ここまで読んでくださった猛者はいるでしょうか?笑
この『あぶく』も、アルバム『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ 』も、考察しがいがありとても楽しかったので、皆さんもぜひ、いろんな観点からヨルシカさんの作品を考察・解釈してほしいです。
そしてぜひ意見交換したい…!
最後にMVビデオに触れておきます。
この「あぶく」のMV、お洒落さも謎も仕掛けもたくさんあってすごく楽しいですよね!
実は、エッシャーの滝の絵の近くには、植物が置いてあるのですが、みなさんお気づきでしょうか?
この植物は、おそらくドラセナではないかと思われます。
ドラセナは「幸福の木」として知られる植物。
最初は、このようなループでなぜ幸福のドラセナなのか、ただの皮肉なのかと思いました。
けれども、エイミーやエルマと重ねてみると、確かにそこには、幸福があるのかもしれません。
繰り返すしかない中で喜び、苦しみ、そして、誰かを想う心に気づいて、誰かに訴えかけるものを創れた瞬間。
それは私たちの人間の愚直さであり、幸せなのかもしれません。
MVが秀逸な考察はこちら↓↓
北欧神話が出てくる考察はこちら↓↓