『JANE DOE』を自分勝手に解釈してみた

 

解釈の悪魔、米津氏が今回もいい仕事をしまくりました。

 

 

 

涙腺壊す気か...…???????

 

 

 

 

 

 


www.youtube.com

 

 

こちら、なんと、米津玄師氏と宇多田ヒカル氏のコラボ作品。

『JANE DOE』

神と神のコラボということで期待はしていたのですが、もうね、

 

 

半端ない

 

 

宇多田ヒカル氏のすさまじい歌唱力と美しい歌声が、米津玄師氏の非常に奥深い解釈と交わり合い、やばい半端ない(二回目)

たんたんとしたたる雨の粒が、次第に嵐のような勢いをもって、最後には太陽の光が静かに差し込み、それとともに影は濃くなる、そんな、どこか静けさと力強さと寂しさを併せ持った絶妙な美しさを感じさせます。

 

大ヒット中の劇場版『チェンソーマン レゼ篇』のエンディングテーマであり、切ない物語の最後を彩るにふさわしい楽曲となっていることでしょう。

 

そして、私も映画で完璧に考察の沼へと落とされた一人。

ここでは、この『JANE DOE』を私なりのレゼ像とともに考察・解釈していきます。

 

 

以下、歌詞は『JANE DOE』(米津玄師, 宇多田ヒカル)の公式YouTube より引用しています。

※敬称は略させていただきます。

 

1. 映像から見た場面設定

素晴らしいのがミュージックビデオ(MV)。

 

Music Video監督 山田智和氏は以下のようなコメントを各記事に寄せている。

わたしたちは宇宙の暗闇のなかで、互いにほのかな重力を及ぼし合いながらくるくると回り続ける。触れ合えるくらいの近くにいても、私たちはみんな別の星。それぞれの回転を持ち、それぞれの夜を見る。これはまさに銀河の衝突。光とも闇ともつかない場所の、永遠のような一瞬。

上記はOTOTYの記事より引用(米津玄師, 宇多田ヒカル「JANE DOE」MVは駅のホームが舞台 - News - OTOTOY

 

まさにこのコメントのとおり、髪と髪が触れ合える距離にいても決して交わらない、けれどもお互いの重力を感じ、二人だけの世界を夢見る、レゼとデンジの切ない一夜を覗いている気になる映像である。

 

このMVを構成する要素は非常に少なく、その中でも重要なものとして、

硝子」「電車」「椅子

の三つが挙げられる。

これら三つは「それぞれの夜」を暗示する、「バラバラな時間」背景をうまくつなげて物語にしており、曲の面白い仕掛けとなっている。

まずはこの「時間」について考察したい。

 

最初のシーンの床を見てほしい。

天井が割れ、舞い落ちて床に散らばる「硝子」は、その不可逆性から過去と現在を示しているといえ、最初のシーンではすでに床に散らばった状態となっている。

つまり、これは終わりの時。

すでにマキマ(の配下である天使)から致命傷の攻撃を受け、最後にカフェ二道にいるデンジへと思いを馳せるレゼ。

そんな、レゼが死に至る瞬間を描いたものだと言えるだろう。

※原作漫画では武器人間として登場するが、記憶は失っており、第二部でも出てくる可能性はあるものの、このデンジと過ごした経験を持つレゼはここで死に絶えたといえるだろう。

 

 

そして、次に、デンジをうたう米津玄師に移り変わる前に、ホームの「椅子」は逆回りの状態となり、天井も割れておらず、足元の「硝子」も消える。

回る椅子は、電車のホームにおいては異質なものだが、真上からのアングルを多用しており、時計を暗示するものとなっているようだ。

つまり、「逆回りの椅子」は過去へと時間を逆戻りしていることを示している。

そして、米津がうたう歌詞からも想像できるように、この時は、デンジとレゼが夜の学校探検するシーンへと時を遡っているといえる。

 

そして二人を乗せた「椅子」は時計回りにくるくると回り、再びレゼをうたう宇多田ヒカルへと移り変わる。

この時、二人を乗せた「椅子」は順回りであるのに対し、電車は逆方向となっている。

迷子になって行く方向を見失っているように。そんな互いを追いかけ合うように。

ここはおそらく、二人が逃げるか、戦うか、死ぬか、殺すか、迷いが見える戦闘シーンと掛け合わせているのではないだろうか。

 

 

そして、天井から舞い落ちる「硝子」。

何度も逆再生しながら「硝子」が落ちては上る様子は、二人が海に落ちていく際の無数の泡にもよく似ている。

 

 

最後に、硝子はすでに床に積り、レゼは一人残される。

この時、再び最初と同じよう構図となるが、異なるのは「電車の行先」、そして「椅子の回る向き」だ。

「電車」とは時刻によってスケジュールされており、乗る機会を逃せば、二度とその「電車」には乗ることができない。

漫画や映画では、レゼは自身の「逃避先に向かう電車」に乗らないことで「デンジとの未来」を選択したという表現になっていた。

レゼをうたう宇多田ヒカルが今、ホームで一人待っているということは、「通常の方向へ向かう電車」には乗らなかったことを示している。

そして、駅にとまったのは「逆方向の電車」。今までとは逆方向にいくということは、逆方面だったデンジのほうへと向かっていることを暗示しているのだろう。

しかしながら、レゼはしずかにホームの椅子に横たわり、その電車には乗らない。

いや、乗ることができなかった。

そう、レゼは、デンジのもとへたどり着くことは叶わなかったのだ。

 

そして、「椅子」は逆回りし、最初の、デンジに思いを馳せるレゼへとつながる。

 

 

以上のような曲の流れを踏まえ、歌詞に関する考察も以下にしていきたい。

 

 

2. デンジに思いを馳せるレゼ

面白いことに、この曲の最初は、横向きの体勢を縦にした動画となっている。

そのため、まるで、レゼをうたう宇多田ヒカルが落ちていっているように感じるのだ。

「落ちる」といえば、レゼがデンジに「恋に堕ちて」しまったことを暗示している可能性もあるが、一方で、1の考察のとおり、この最初のシーンが「レゼが死に至るまで」なら別の解釈が浮かび上がってくる。

それは、「殺されて、土の巣穴に落ちていく田舎のネズミ」だ。

 

まるでこの世界で2人だけみたいだね
なんて少しだけ夢を見てしまっただけ

 

ゆったりとした始まりから「まるでこの世界で2人だけみたいだね」まで、映像では全体的に暗く、まるで本当に人がいない世界のように感じられる。

しかし、次の「なんて少しだけ夢を見てしまっただけ」では、多くの人が利用する公共交通機関である電車が背後を走っていく。

この差によって、「願望」と「現実」が明確に分かれる映像となっている。

 

そして、このシーンで特に目に留まるのが、左手のピンキーリング。

左手小指のリングには、「チャンスを引き寄せる」「願いを叶える」といった意味があり、ここでは、デンジと一緒に逃げることも、最後に会うことすらかなわなかったレゼの願望を示しているのかもしれない。

 

3. 未来を夢見る少女

つま先に月明かり
花束の香り
指に触れる指

 

宇多田ヒカルのみが歌うシーンで、電車車内からホームのレゼを歌う宇多田ヒカルが見える、とてもおしゃれな構図だ。

立ち位置でいえば、奥の電車がレゼ側だとすると、デンジ側の電車の中からの描写だといえ(なぜ奥の電車がレゼ側とするのかは次に考察)、ドアを隔ててレゼを待つデンジ視点ともとれる。

つまり、カフェ二道でレゼを待つデンジだ。

 

一方で、こんな見方もできる。

電車のドアの枠は、まるで宇多田ヒカルを捕えている箱のようにも見えないだろうか。

ソ連にとらわれ、武器として利用されたレゼ。

そんな境遇を表しているようにも思える。

 

ここの歌詞は、

「つま先に月明り」「花束の香り」「指に触れる指」

のように視覚、嗅覚、触覚と表現する素敵な用語であり、「月明かり」「花束」「指」のどれも、チェンソーマンレゼ編で出てくるキーワードである。

だが、唯一、レゼの感じていない感覚がある。

それは「花束の香り」だ。

 

レゼが本編でデンジから受け取ったのは花一輪だけであり、花束の香りを嗅ぐシーンはない。

つまり、これらの歌詞は、想像。

レゼが想像した、デンジと一緒にいる未来なのだろう。

 

花束を抱えたデンジと再び会い、一緒に逃げたさきで、お互いに寄り添いながら眠る夢。

暑さのために窓を開けているのか、それともカーテンすらないのか、月明りの入る部屋でその光を足元に受けながら、部屋に置いた花束の香りに包まれ、お互いの指を絡め合う。

 

映画の最後で彼女が夢見た、デンジとの未来。

映画特典第二弾では、花束を抱えて笑うレゼとそんなレゼを抱き上げたデンジのイラストとなっているが、実はこの花束、デンジが持っていた花束とは種類が違う。

 

劇場版『チェンソーマン レゼ篇』特典第二弾 
藤本タツキ先生 描き下ろし ミニ色紙風カード 
公式サイトより引用

 

 

死ぬ間際、レゼにはなんの花かはわからずとも花束を持つデンジが見えたのか、それとも、見えていなくとも、「キミならきっと、私は花を渡せば喜ぶと思い込んで、大きな花束を持ってきそう。」と想像していたのか。

そんな夢を、彼女は、この捕らわれた小さな箱の中で見ているのではないだろうか。

 

さよなら もう行かなきゃ
なにもかも忘れて

 

レゼが去る場面は映画の中に二つある。

一つは命令を遂行できなかったレゼがソ連から逃げるために、砂浜でデンジの首を折って去るシーン。

 

砂浜でレゼは、「もっと賢くなりなよ」とデンジを諭す。

これは、砂浜で再びレゼに騙されたデンジを揶揄するようなセリフでもあるが、一方で逃げおおせる確率が限りなく低く、大事なもの(アキやパワー)があるデンジにとって、一緒に逃げることは損だということも暗示している。

 

そしてもう一つのレゼが去るシーンは、レゼがマキマに負け、亡くなるシーンだ。

実際、逃げおおせる確率は低く、レゼの行動はすべてマキマに監視されており、デンジのいる二道に駆け出した行動もすべて筒抜けだった。

そしてその後、殺されたレゼはすべてを忘れ、マキマに支配された武器人間へと変わる。

 

死にいたる瞬間、「さよなら もう行かなきゃ」はずいぶんとあっさりとした印象を受けるが、死ぬ覚悟、殺される覚悟が常にあったレゼだからこそ、出てきた言葉なのかもしれない。

 

小さな箱のなかで、レゼはデンジとの未来を夢見ながら、別れを告げたのだ。

 

 

ガラスの上を裸足のまま歩く
痛むごとに血が流れて落ちていく
お願いその赤い足跡を辿って
会いに来て

 

この部分については最後に考察したい。

 

 

4. 少年の過去から未来

ここからはデンジの心情をうたう米津玄師のターンだ。

1で述べたように、映像では時計回りだった椅子が逆回りとなり、未来を想像する少女に対し、過去を回想する少年へと移り変わったことを暗示している。

 

錆びたプールに放たれてく金魚
靴箱の中隠したリンゴ
萎びた君の肌に残る傷跡
犬のように泳いだ迷子

 

ここのメロディもとてもいい。

米津と宇多田の対談映像では、米津が、原曲を大きくアレンジした宇多田の案を採用したというエピソードを聞ける。

私は音楽に関する知識がないため論じることができないが、ここのメロディはアレンジ前と思われる素朴さ、ストレートさが感じられる(勘違いかもしれんが)。

 

そして、この歌詞が示すもの。

名シーン夜の学校探検だ。

 

「錆びたプールに放たれてく金魚」

小さな魚である金魚は、まさにデンジとレゼのことだろう。

彼らがふたりきりで泳ぐシーンは、美しく、青春を感じさせる。

ここに「錆びた」という単語が使用されているのは、錆びができるほど長く使われている、学校のプールをイメージさせるものだが、一方で、「監視」の意味合いも含んでいるかもしれない。

プールで錆ができやすいのは金属部分の排水溝や継ぎ目、監視台の下など。

狭い金魚鉢からプールへ来た金魚たちは、きっと、解放されたと喜び自由に泳ぎ回るだろう。

しかし、たとえ広くとも、そこは人工的に管理された場所。

デンジやレゼが、行動範囲の自由が増えても、囚われの身であることを暗示しているのではないだろうか。

 

 

「靴箱の中隠したリンゴ」

学校で最初に入る玄関には靴箱がある。

そこにリンゴ、いわゆる知恵の実ともいえる果実をそこに隠すということは、人としての理性を玄関に置いて、正常な判断を持てない状況で校内に入るとうこと。

まさに、レゼに翻弄されるがまま夜の学校探検までしてしまっているデンジの状況そのものだろう。

 

「萎びた君の肌に残る傷跡」

二人は血で回復するため古傷などはないはず。そのため、ここでいう傷跡は、長く水につかり、萎びたレゼの肌に、遊んでいるうちについた擦り傷などの傷跡のことだろう。

もしくは、泳ぎを教わるデンジが強く握りすぎたりしたせいでついた跡かもしれない。

そんな跡が、薄暗いなかでも見えるほど近い距離にいる二人。

 

「犬のように泳いだ迷子」

チェンソーマンは、デンジが自分の欲というものを理解し、考えることを学んでいく物語だ。

主人公であるデンジはよく犬に例えられるが、それは生きることに必死で、自分のなかに人生の指針に呼べるものがまだ無く、考えることを放棄して誰か(マキマなど)の指示に従っていることが一つの理由だろう。

そんな、何かを教わる余裕などない人生を送ってきたデンジは、ここでレゼに泳ぎ方を学ぶ。

つまり、この時点でのレゼは教師であり、犬の主人のようなものだ。

レゼのいる場所を目標に懸命に泳ぐ彼は、自身を、主人を求めて犬かきをする迷子犬のように感じられたのかもしれない。

 

 

最終的に、これらの学校体験や祭りデートで、デンジはレゼを完全に好きになった。

けれども、レゼの「私と一緒に逃げない?」という問いに対しては、煮え切らない態度をとる。

それは、兄のようなアキや妹のようなパワー、つまり家族的存在が彼の心にあったからだろう。

映像でも、デンジをうたう米津玄師の背景には、レゼとは違い、もう一つの別のホームとベンチが映る。

これは、まさにアキやパワー、つまりデンジにとっての心の居場所が別のところにあることを示している。

※このことから、別のホームが見える側がデンジをうたう米津玄師側、壁側がレゼをうたう宇多田ヒカル側だと解釈できる。

 

 

どこにいるの? (ここにいるよ)
何をしてるの? (ずっと見てるよ)

この世を間違いで満たそう
そばに居てよ 遊びに行こうよ
どこにいるの?

 

ここで、米津玄師と宇多田ヒカルの掛け合いになる。

が、掛け合いにもかかわらず()でくくられれており、一方的な会話であることを示している。

 

「この世を間違いで満たそう」

IRIS OUTの「今この世で君だけ大正解」と対照的なこの歌詞。

個人的解釈として、ここの歌詞は、砂浜でのセリフを表していると思える。

「君だけ大正解」だったように、当初、デンジにとってレゼは、学校のことや泳ぎを教える先生側であった。つまり正解を教える側だ。

そのレゼがデンジの「一緒に逃げねえ?」を拒否したということは、それは理性的に考えれば「間違い」であるということ。

けれども、「間違い」であってもいいから、その間違いから一緒に未来を作っていこう、という提案なのだろう。

 

そして一瞬だけ、まるで幻のように二人が並ぶシーンが映る。

そういう未来もあったかもしれない、とでもいうように。

 

しかし、「側にいてよ」「遊びに行こうよ」という問いかけに、レゼをうたう宇多田ヒカルが応えることはない。

 

すでに、応えることはできなかったのだ。

 

 

5. 最後の願い

ガラスの上を裸足のまま歩く
痛むごとに血が流れて落ちていく
お願いその赤い足跡を辿って
会いに来て

 

レゼは、複数の側面を持つ女性だ。

デンジに演技として見せた天真爛漫な少女、嫉妬深い女性、冷静沈着な兵士、好戦的な戦士。そしておそらくもともとの性質である優しい女の子。

 

レゼはチェンソーマンの心臓を奪うために必要以上の時間をかけているように思えるが、これは、デンジへの気持ちを抜きに考えれば、被害を最小限に抑えたいという気持ちの表れだといえる。

なぜならレゼは、戦闘シーンではなるべく被害を広げないようにする行動をとる。

 

例えば、デンジの心臓を抜き取るシーンでは、騒ぎにならないように花火に合わせてデンジから心臓を取ろうとする。

また、対魔二課では人殺しを最小限に抑えようとした行動もみられる。

 

「私の力を見せるために殺して見せた」

「できるだけ人殺しはしたくない」

チェンソーマン 第六巻 第47話 より引用

 

さらに、これはチェンソーマンでは恒例でもあるが、コペニを殺そうとはしない。

 

また、逃亡の際、警察を避けるため募金を行うが、映画版では自身の戦闘による被害者への募金となっている。

 

これらの表現や、爆弾の悪魔でありながら時間をかけて色仕掛けを行っていたことからは、好戦的な部分を持ちながらも、なるべく被害を抑えたいというレゼのもともと持つやさしさがうかがえる。

 

そんなやさしさを持つ一方、「爆弾」の悪魔という性質上、発動すれば広範囲に多大な被害を与えてしまう彼女。

彼女が過去、任務を遂行し目にしてきた光景は、人の築いた建物の残骸、つまり瓦礫や割れたガラスの山だったのだろう。

 

その中を一人歩き任務を遂行する彼女は、どんな気持ちだったのだろうか。

 

戦闘シーンからもわかるように、爆発によって自身の服や靴は焼失し、顔と前掛け以外は裸になってしまうが、彼女は気にせず裸足で戦い、瓦礫の中を進んでいる。

この状態で割れたガラスの上を歩けば、治るとしても、痛みを感じることだろう。

だが、この血と痛みこそ、彼女にとって、彼女が唯一人間である証拠だったのではないだろうか。

感情を失ってしまった彼女の、罪と罪悪感の跡。

そんな人間である自分に、彼女はもう一度会いに来てほしかったのかもしれない。

 

 

まるでこの世界で2人だけみたいだね

なんて少しだけ夢を見てしまっただけ

 

2人の距離は背中合わせで、髪と髪が触れ合うほど近くなる。

 

最初のこの歌詞は、レゼをうたう宇多田ヒカルが歌っていたが、ここでは、前半をデンジをうたう米津玄師が、後半を宇多田ヒカルが歌う。

そう、漫画や映画の通り、レゼのほうが少しだけ早く夢から覚めてしまったのだ。

 

そして、1でも述べたように、まるで二人だけの世界だった水の中の泡のように硝子が舞う。

 

ここで、また指輪についても触れておきたい。

最初に、宇多田ヒカルの左手小指の指輪について述べたが、実は、右手の中指と左手の親指にも指輪をはめている。

右手中指の意味は「直感」。

冷静沈着なソ連の兵士としての理性的な判断ではなく、自身の直感に従ってデンジのもとへ走ったレゼを象徴しているのかもしれない。

一方で、左手親指は「権力」の象徴。

最後には、国家間の権力争いから逃れられぬまま、レゼは制裁を受けた。

 

 

硝子が舞い終わった後、そのホームに残っているのはレゼをうたう宇多田ヒカル一人。

そして、彼女は、電車を見送り、静かに横たわる。

 

 

タイトルの『JANE DOE』は身元不明の女性を指す言葉。

裁判における仮名としても使用されるほか、身元不明の女性の死体に対しても使用される。

 

 

 

6. レゼ編考察

ここまでの歌詞とMVの考察でだいぶ長くなってしまったが、デンジとレゼの関係性を語るうえで、レゼの歌や映画オリジナルなど考察すべき部分がある。

よければもう少しお付き合いいただきたい。

 

6-1 ダフニスとクロエ

まずは映画オリジナルとして登場した絵画「ダフニスとクロエ」。

 

「ダフニスとクロエ」フランソワ・ブーシェ(François Boucher (1703-1770) - Daphnis and Chloe - P385 - The Wallace Collection



学校探検のシーンで登場するこの作品は、もともと古代ギリシアの小説で、孤児の少年ダフニスと同じく孤児の少女クロエという恋を知らない二人の、純粋で幼い、素朴な恋愛を描いている。

 

デンジとレゼの境遇は、このダフニスとクロエとも共通する部分がある。

例えば、デンジやレゼは孤児として生活してきたが、ダフニスとクロエもまた、それぞれ捨て子として拾われ、赤ん坊の時期には山羊や羊に世話をされて山羊飼い・羊飼いとして成長する。

 

また、デンジとレゼは悪魔の力を持ち、それにより任務を遂行するが、ダフニスとクロエもまた、神の祝福(や友人の助け、もともとの身分の高貴さ)によって物語で巻き起こる様々な苦難を乗り越えていく。

 

さらに、境遇だけではない。

チェンソーマンでは、裸での水泳シーン、祭りでのキスといった印象的なシーンがあるが、これも似ている。

クロエは水浴びするダフニスの肢体を見てドキドキするようになり、ダフニスはクロエからの口づけにより寝ても覚めてもクロエのことばかり考えてしまうようになる。さらには、大人の意見に従い、裸で横に寝た状態になるといったこともしている(なかなかそこからは進まないが)。

 

つまり、権力争いを抜きにしたデンジとレゼの関係は、「恋を知らないダフニスとクロエ」にそっくりなのである。

 

「恋を知らない」という点において、デンジにはマキマがいるじゃないか、と思われるかもしれない。

しかしながら、マキマの名前の由来が、木を切るチェンソーで真ん中の「キ」を切ると「ママ」になるという話や、チェンソーが出産用の手術器具であったことなどを考えれば、デンジのマキマに対する感情は「母親への思慕」だといえるだろう。

一方で、デンジのレゼに対する感情は、自分に好意を持つ女子と初めての経験を積み重ねたうえでの、少年の初恋に近いものだと想像できる。

 

レゼに関しても同様で、彼女の行動や終盤の言葉からは、任務を遂行するうえで恐ろしく冷静で残酷な判断を常にしてきたことがうかがえる。

今回のように感情で動いてデンジのもとへ駆けつけるという行為は、彼女の人生においてなかったはずだ。

つまり、実験体として育ったレゼにとっても、これは自分の理性では制御できない、初恋に近い感情だったに違いない。

 

 

6-2 神々の消えた土地

だが、デンジとレゼの物語は、ダフニスとクロエのようにハッピーエンドとはいかなかった。

この物語の背景には、「ダフニスとクロエ」だけではなく、もう一つの話が影響しているかもしれない。

それは、北杜夫の「神々の消えた土地」だ。

 

北杜夫の「神々の消えた土地」は、ダフニスとクロエに憧れる少女とそんな少女に一目ぼれをした少年の、戦時中の純愛を描いた作品。

 

【要約】

映画館で出会った茶目っ気のある少女と不良の少年は、戦争に振り回されながらも惹かれ合い、最終的に信州の大自然のなかでダフニスとクロエをなぞるようにして結ばれる。

しかしながら、少女の住む町は空襲を受け、次に約束していた日の電車に少女が乗って少年に会いに来ることはなかった。

信州の大自然の荘厳さの中に、少年はかつて確かに神の息吹を感じていたが、少女を失った今、彼とってすべての神々は消え失せてしまったようにしか思えなかった。

 

チェンソーマンの中には、絶対に登場しない言葉がある。

それは「神」だ。

チェンソーマンの世界に「神」の概念は存在しないのである。

これはおそらく、チェンソーマンの持つ食べることによって悪魔のもつ概念を消す力に由来すると予想される(正解は公式を待ちましょう)。

 

「神々の消えた土地」と同じように、デンジとレゼは国家間の権力争いに巻き込まれた。そして恋人との約束を守ることもできず、焼夷弾に家を焼かれ、泥のような水の中で死んだ少女と同じように、レゼもまた恋人と添い遂げる未来を夢見たまま、死んだ。

 

デンジやレゼは悪魔の力を持っていても、ダフニスやクロエのように神の祝福はなかったのだ。

この世界に神はいないのだから。

 

 

この「神々の消えた土地」がレゼ編にかかわっているかどうかは正確にはわからないが、一点、関連する内容もある。

 

実は、漫画版ではレゼは山形行きの新幹線に乗るのだが、映画では仙台行きの新幹線に変更になっている。

山形と言えば、作者である藤本タツキの出身大学(東北芸術工科大学)のある地だ。

そして、仙台は北杜夫の出身大学(東北大学)のある地である。

 

面白い「偶然」だ。

 

 

7. ネズミの幸せ

さて、「ダフニスとクロエ」で書いたように、デンジとレゼは共通点が多い。

まさに、映画特典のような世界線であれば、ダフニスとクロエのように幼馴染として愛をはぐくんでいたことだろう。

劇場版チェンソーマン レゼ編 映画特典第五弾(左)と第六弾(右)
公式サイトより引用



そんな二人には2つの相違点がある。

ひとつは、「田舎のネズミと都会のネズミ」、どちらを選ぶかという点だ。

原作、映画を見た方はすでに二人がどちらを選んだか、ご存じのことと思う。

 

なぜレゼが「田舎のネズミを選んだのか」という点については、以下の歌からもわかるだろう。

レゼは、素性がわかる雨の学校の屋上でのシーン(第43話 ジェーンは教会で眠った)では、ロシア語で歌をうたう。

 

劇場版『チェンソーマン レゼ篇』「ジェーンは教会で眠った」(歌:レゼ(CV:上田麗奈)、作詞:藤本タツキ、作曲・編曲:牛尾憲輔


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この歌詞を簡単に和訳すると、以下のような感じだ。

「ジェーンとのデートの日。準備が終わったら教会へ行き、カフェでコーヒーを飲んで公園を散歩した後、水族館を楽しもう。ジェーンのお気に入りのイルカやペンギンも見てね。お昼のあとは少し休憩して、「私たち何したかな?」って思いつくままにおしゃべりしよう。たくさんありすぎて、全部は思い出しきれないかもしれない。そして、夜は教会で眠ろう。」

 

デートの1日とも愛する人との人生ともとれる素敵な歌詞である。

田舎のネズミを選んだレゼが、憧れる平凡な日常。

 

一方、都会のネズミを選んだデンジもまた、「IRIS OUT」のOP映像のなかで、このようなデートを夢に見ている。

このとき、映像はOPのため、デンジのデートする女性はおそらく母親やマキマを基にした理想の女性像であると思われるが、最後にはレゼの首のピンを手にしたことで爆発して終わる(詳しくはIRIS OUTの考察を参照)。

 

つまり、二人の本当に求めるものは実は同じで、田舎でも都会でもない。

「好きな人との日々」なのだ。

 

この「ジェーンは教会で眠った」の元ネタとして挙がっている一つに、「二人のティータイム:恋人はドクター」というハーレクインの小説がある。

内容としては、イケメン医師が派手で美人な姉(いわゆる都会のネズミ)ではなく、主人公である地味な妹(田舎のネズミ)を選ぶ話。

主人公は田舎の小さな喫茶店を経営していて、瞳が魅力的であることや、登場人物の関係性などは、レゼの設定やマキマ、デンジ、レゼの関係性とも似ているような似ていないような感じである。正直元ネタかどうかは微妙なラインではあった。

だが、これを、爆弾の悪魔ではないもともとのレゼがひそかに読んでいたと妄想してみると心に来るものがある。

なぜなら最後には、好きな人が主人公に会いに来て、不安を覚え始めた暮らしから連れ出してくれるのだから。

 

そしてもうひとつ、二人の相違点として挙げられるのが、「大事な存在」だ。

二人とも、「好きな人との日々」を追い求めているとしても、そこには微妙な違いがあった。

 

デンジは、祭りの夜にレゼが「一緒に逃げよう」と提案しても、それを一度断る。

その理由は、仕事のやりがい、そしてアキやパワーといった家族的な存在といった「大事になり始めた日常」が大きいだろう。

その返答に対し、レゼは、「私のほかに好きな人いるでしょ」と言い切ってキスをする。

これはデンジの心に残るマキマの存在を読み取ったともいえるが、一方でレゼには「仕事のやりがい」や「家族的存在」というものが想像すらできなかったともいえる。

彼女にとって「仕事のやりがい」も「家族的存在」も、架空のものだったのだろう。

 

つまり、デンジにとっての「好きな人との日々」にはレゼだけでなく、アキやパワーなども含まれた好きな人たちとの日常のことであったのに対し、レゼにとっての「好きな人との日々」は自身の運命の王子様と暮らす日々だったのだ。

 

ちなみに、超個人的解釈だが、ここで返答を聞かずに舌をかみ切るのは「好きな人」が「デンジ」になりかけていた彼女にとって、他の女の存在は嫉妬心を増幅させ、「ほかの女がいるなんて聞きたくない(そんなこと言う舌はかみ切ってしまえ)」という心理でレゼの嫉妬深い面や激情的な面を示しているし、まだこの時点ではデンジを犬のような保護対象兼所有物だという認識があって、ビームがデンジを連れ去った後の「泥棒」というセリフからは所有欲の高さがうかがえるし、暴力くんとの戦闘シーンで「やろうか」と構える点からも好戦的な部分を見せている、レゼ優しいけれども嫉妬深くて好戦的で執着の強い女の子なんだよラブ(超早口)。

 

戦闘時は、ボムにはソ連からの手助けなどなく、味方は服従させた台風くんだけだった。

それに対し、デンジには(デンジを想ってではないが)命掛けで戦う公安組、デンジを必死で助けようとするアキ、そしてデンジを崇拝するビームがいた。

それによって、レゼは、デンジに「好きな女性」以外の大切な存在がいることに気が付いたのかもしれない。

飛行機から落とされればそれでおしまいの、爆弾の自分とは違って。

 

そんな二人の性質の違いは、花にも表れているといえる。

「ダフニスとクロエ」「神々の消えた土地」でも花は象徴的に出てくるが、チェンソーマンでは特に「ガーベラ」が多くの人の心に残ったことだろう。

 

デンジが募金でもらったのは「白いガーベラ 」。花言葉は「純潔」「純粋」。

まだ子どものように、いい意味でも悪い意味でも何も知らないデンジとつながる言葉だ。

レゼがもらったのは「赤いガーベラ」。花言葉は「情熱」「神秘の愛」。

デンジとの関係は、ほかには何も考えられなくなるほど情熱的な感情だったのだろう。

 

最後に、ガーベラの花言葉は本数でも違うとのこと。

一本のガーベラの花言葉は「一目ぼれ」そして「あなたが私の運命の人」。

 

 

8. 最後に

長っ

 

 

いやぁ、またまた文章が長くなりすぎてしまいましたが、いかがだったでしょうか?

もうこの物語がすごく切なすぎて漫画版だけでも素晴らしかったのですが、今回、映像や音楽が組み合わさることで、本当に多くの人の心に愛と傷を届けた作品になったかと思います。

いやあ、半端ないぜ(三回目)。

 

今回の考察に用いた本はそれだけでも面白いので、ぜひぜひ皆さんも読んでいただきたい。そして願わくば、読んだ後にまた劇場版チェンソーマン-レゼ編-を見てみてください!

 

 

 

IRIS OUTの考察はこちら↓↓↓

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その他、米津玄師氏の考察はこちら↓↓↓

 

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